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複製の過程に織り込まれている変化〜変化の総体としての、流体としての自己(Self)〜

自分という存在は、自分自身を複製し続けながら、それでいて複製の過程で変化しながら保たれている。

「複製」というと「全く同じ」との印象がありますが、そうではなく変化を伴っている。常に劇的に変化していては自分を保てないというか、自分自身とのつながりを見出せなくなってしまうかもしれない。

「ほぼ同じ」だけれど微かな差異がある。そうして変化が意識されない形で生じることによって「自分自身」とのつながりは保たれながら、その微かな差異の積み重ねが時間の経過によって、やがて大きな差異に至る。

投資における「複利」の考え方、つまり「利子が利子を生み出す」構図のように、最初の量は少なくとも自己増殖していく、つまり正のフィードバックループが働いている。

一方、無限に増殖し続けていては、無限に膨張しては「形を保つことができない」と学んだように、どこかで自己増殖を抑制する負のフィードバックループが働かなければいけない。

そうした、正負の循環の中で、引き継がれた遺伝子に乗っている遺伝情報に新たな変化が乗って次代に引き継がれていく。その変化は、予期した変化もあれば予期せぬ変化もあるはずで。

「変化とは流れである」

私という存在を「変化の総体」と捉えてみると、それはすなわち「私は常に流れ続けている」ということに他ならないように思うわけです。常に固定化した私はおらず、常に何かが変化し、流れ続けている。流体としての自己。

生物の特徴は、"自分自身が生きていくこと、そして子孫をつくっていくこと"でしょう。ところで、生物はすべてDNAを基本にして生きているということが明らかになってから、生きていることも子孫をつくることも共にDNA(遺伝子)のはたらきで説明できることになりました。DNAは二重らせん構造をしており、自分とまったく同じものをつくる自己複製能力をもっています。これは遺伝子にとって不可欠の性質で、いつ見てもなんとうまい構造になっているかと感心しますが、それでも、日常感覚からいうといつも同じものをつくるという捉え方には抵抗があります。

中村桂子『生命誌とは何か』

ヒトからはヒトが生まれ、イヌからはイヌが生まれるという意味では同じものかもしれないけれど、一人一人、一匹一匹違うじゃないかという気持ちです。歴史を見る場合も複製に重点を置くと、DNA(遺伝子)は生命の起源の時から今に到るまであらゆる生物に存在し、その一部が今私の中にあるのだから、個体は遺伝子の乗り物にすぎないという考え方になります。それにも抵抗があります。

中村桂子『生命誌とは何か』

でもここで、個体は遺伝子の乗り物にすぎないとして、生物が遺伝子に操られているかの如く考えてしまうと、自分にとって一番大切な「私」が消えてしまいます。それはやはりおかしい。DNAを通して大らかな気持ちを手にした上で、もう一度私という存在を考えるのが最も生きものらしいと思います。すると、ゲノムという単位の意味がわかってきます。

中村桂子『生命誌とは何か』


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