複製の過程に織り込まれている変化〜変化の総体としての、流体としての自己(Self)〜
自分という存在は、自分自身を複製し続けながら、それでいて複製の過程で変化しながら保たれている。
「複製」というと「全く同じ」との印象がありますが、そうではなく変化を伴っている。常に劇的に変化していては自分を保てないというか、自分自身とのつながりを見出せなくなってしまうかもしれない。
「ほぼ同じ」だけれど微かな差異がある。そうして変化が意識されない形で生じることによって「自分自身」とのつながりは保たれながら、その微かな差異の積み重ねが時間の経過によって、やがて大きな差異に至る。
投資における「複利」の考え方、つまり「利子が利子を生み出す」構図のように、最初の量は少なくとも自己増殖していく、つまり正のフィードバックループが働いている。
一方、無限に増殖し続けていては、無限に膨張しては「形を保つことができない」と学んだように、どこかで自己増殖を抑制する負のフィードバックループが働かなければいけない。
そうした、正負の循環の中で、引き継がれた遺伝子に乗っている遺伝情報に新たな変化が乗って次代に引き継がれていく。その変化は、予期した変化もあれば予期せぬ変化もあるはずで。
「変化とは流れである」
私という存在を「変化の総体」と捉えてみると、それはすなわち「私は常に流れ続けている」ということに他ならないように思うわけです。常に固定化した私はおらず、常に何かが変化し、流れ続けている。流体としての自己。
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