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何をもって、何を見るのか。主観と客観。

今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「何をもって、何を見るのか」を読みました。

日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した湯川秀樹さんの

それでは一部を引用します。

 観測理論というのは、一番小さな物質を観測するためには、最低一つのフォトン、光子が必要である。一番小さな物質を見るために、一番小さな光子をそこに当てると何がおこるかといえば、光子によって物質が撹乱されてしまうために、その本来あるべき姿が観測できなくなってしまう。こういうことが物理学の世界で、観測理論、あるいは観測限界というふうに言われているんですね。私は湯川さんに、「観測理論があるということは、それは科学がそれ以上は先に進めないということなのでしょうか」ということを聞こうとしたわけです。
 そのときに湯川さんはこういうようなことを言われた。
 見ていることと、していることとは違います。ということをどう考えるかということなんや。そやけれども、その違いにこだわったら、科学というのはすすまへんで。どうにもならへんで。大事なことは何をもって何を見るのか。その「何をもって」というのは、こっちにあるやろ。「何を見るか」というのは向こうにあるやろ。これを両方やらなあかんよ。このとき、「何をもって」というときにイメージがあるやろ。そして「何を見るか」というときにもイメージがある。たとえば街を歩いているときに、女の人を見ようとか、あの木を見ようとか思わなければ、女や木は見えへん。ただ漠然と見たらそれは町にしかならへん。だから向こうを見るときも、こっちを見るときも、両方にイメージが動いているのや。この二つの両方のイメージを連続的にするような科学が必要なんや。
 というようなことをおっしゃって、「それをこれからの理論物理学はめざさなければいかん」と言われていました。

本節のタイトルである「何をもって、何を見るか」という言葉。この言葉に触れたとき「何をもって」が無性に気になりました。私たちは日々の生活の中で「何をもって、何を見ている」のでしょうか?

「何をもって」の何は「モノサシ」や「レンズ」に言い換えることができると思います。つまり、私たちは日々の生活の中でどのような「モノサシ」や「レンズ」をもって、物事や出来事を眺めているでしょうか。

たとえば買い物をするとき。「何をもって」その物を見ているでしょうか。

値段、素材、見た目、機能性。
これらは「物自身」あるいは「物と使い手」との関係性というモノサシ。

心地よさ。
「物と使い手」との関係性の上に「人間味」というモノサシが加わる。

作り手の想い。
「物と使い手」という関係性の上に「作り手」というモノサシが加わる。

時間。
物、自分、自分を取り巻く環境が時間と共にどのように変化するだろうか。
「想像力」というモノサシが加わる。

今回は「ミクロの世界、極小の物質をどのように観測するか」という「観測理論」の話が触れられています。そこでは「光子(フォトン)」を物質に当てて、反射した光子を通して物質を見る。なにもミクロの世界だけでなく、日頃私たちが視覚を通して目にする光景は文字どおり「光」が織りなす情景です。

でも目を閉じても、世界を見ることはできます。
目を閉じて何かに触れて見る。感触をつなぎあわせていく。
音を通して見る。エコーロケーション。イルカ。お腹の中の赤ちゃん。

「たとえば街を歩いているときに、女の人を見ようとか、あの木を見ようとか思わなければ、女や木は見えへん。ただ漠然と見たらそれは町にしかならへん。」と湯川さんは述べていますが、たしかに漠然と何かを見ていることが多いかもしれません。見ているようで見えていない。

「だから向こうを見るときも、こっちを見るときも、両方にイメージが動いているのや。この二つの両方のイメージを連続的にするような科学が必要なんや。」とも湯川さんは述べています。

「両方のイメージを連続的にする」というのは「見るものに適したモノサシを作る」こと、「作ったモノサシでモノがありのままに見えるか確かめる」こと。その両方が同時に成立するように、調和するように試行錯誤・探求を重ねるということを意味しているのではないでしょうか。

「連続的」というのは「なめらかにつながる」ということであり、つまり、「調和する」という感覚ではないかと。

そう考えると、私たちは自分を取り巻く環境となめらかに連続的につながっているでしょうか。「ありのままをありのまま」捉えているでしょうか。

「主観」を完全に取り除くことはできない。ありのままというのは「全容」と考えれば、つまり「一面的ではない」ということ。

「主観的」に「多面的」に眺めることができれば、それは「全容」にかぎりなく近づけるかもしれません。その極限が「客観的」だとすると「多面的」という「のりしろ」を通して主観と客観が連続的になめらかにつながるような気がしてきます。

主観と客観は二項対立ではなくて「等価」なのではないか。湯川さんの言葉を通して不思議な感覚に出会うことができました。たとえ分かれていても、分けて考えない。あらゆるものを包み込むような「何か」を探ってゆく。

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