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「小川のせせらぎ」と「水の知力」

岡潔(数学者)による『数学する人生』を読み進めている中で、唯物主義と個人主義という概念が説かれました。確認すれば、「物質には心がない、と思うのが唯物主義で、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが個人主義」ということです。

そして、岡さんは「水の中に魚が住むように、人は心の中に住んでいる」と説いた上で、「唯物主義と個人主義が心を濁らせている」と警鐘を鳴らしたのでした。

では、唯物主義と個人主義による心の濁りを解消するにはどうすればよいのでしょうか。唯物主義と個人主義の定義に立ち返れば「物質には心がある、肉体の外にまで自分が広がっている」と捉えることから始めてみるのがよさそうです。

今日は「物質には心があるとはどういうことか」について、『数学する人生』から「物質の知力」に関するいくつかの言葉をヒントに考えてみたいと思います。

 物質的自然の最大の不思議は、物質が法則に従うということです。単に法則があるだけではなく、物質はいかなる場合にも、決してその法則に違背しない。たとえば、小川のせせらぎを思い浮かべてみてください。小川は実にきれいにせせらぎますね。あれは重力その他二、三の法則によってそうなるのだけど、法則からのせせらぎが出てくるためには、各瞬間、各水滴が、それぞれの情勢に応じてどちらの方向へどれくらいの速さで流れたらよいかをすぐに判断し、その通りに行動する必要があります。

『数学する人生』(岡潔 森田真生編)

小川のせせらぎの清々しい光景が目に浮かびます。鳥のさえずりや深緑の木々も。「せせらぎ」という言葉の美しさに導かれるように「物質の心」を探ってみます。

川の流れは水滴が物理法則に従うことによって生まれている。通常、私たちは「あらゆる物質は物理法則に従うのが当然」と考えています。毎回毎回、物質が物理法則に従わない挙動を示したならば、私たちの日常生活が成立することはありえないでしょう。物質が物理法則に従うからこそ「再現→予測→変化」という形で、目的に適うように物を扱うことができるのです。

ですが、この当然に対して岡さんが疑問を投げかけるわけです。「その当然は何に支えられているのだろうか」と。

「各瞬間、各水滴が、それぞれの情勢に応じてどちらの方向へどれくらいの速さで流れたらよいかをすぐに判断し、その通りに行動する」からこそ、小川のせせらぎが生まれている。水は瞬間瞬間で膨大な計算をして、その結果を統合した結果が「せせらぎ」という現象として立ち現れている。そう思う他ないと言うわけです。

では、自分事に引き寄せて考えてみます。私たちは立つ、歩くという運動をするわけですが、運動の連続としての「歩行の軌跡」を「川のせせらぎ」と重ねてみます。

私たちの身体には「重力」という物理的な力が働いています。重力は地球との間に働く引力ですが、もし重力が存在しなければ「自分の身体を支える」ことはできず、地面から浮かび上がり離れてしまいます。その重力の中で私たちは立ち、歩いている。身体に存在する約60兆個の細胞が瞬時に協調して姿勢を変え、力を生み出している。それも瞬時になめらかに。

そのなめらかな動作は私たちが「意識的に行う計算」とは似て非なるものに支えられているのではないでしょうか。実際に歩いている時、身体は部位の組み合わせではなく、一つの連続体として立ち現れる。私たちが連続体としての身体を瞬時に協調させて「歩みの軌跡を描く」のと同じように、連続体としての小川も瞬時に協調してせせらぎ、「流れの軌跡を描く」のです。

そのなめらかさは「心」が支えているのだとすれば、人のように小川にも心がある。そのように捉えられないでしょうか。人に心が存在して、(物質としての)小川には心が存在しないとは言い切れない。岡さんの言葉を受け、少なくとも私はそのように思いました。

そうすると物質には、非常に難しい数学上の計算をただちにしてしまうような知力があると思うほかない。でなければ、物質の法則が、せせらぎになったりはしない。(中略)超人的な知力や意志力。こういうものを認めなければ、自然界は説明できるものではないと彼らも気づいたのです。ところが、説明できそうもないとなると、すぐにその方面への関心は薄れ、忘れられてしまうのです。

『数学する人生』(岡潔 森田真生編)

次回は「個人主義」の逆説、「肉体の外にまで自分が広がっている」について考えてみたいと思います。

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