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数寄=すき(好き)

今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「「向こう」からやってくるもの」を読みました。それでは一部を引用します。

 ここで、もう一つ大事な日本の方法について話しておきたいと思います。それは、「数寄」という方法です。英語でいうとスクリーニングにあたるようなことを「数寄」と呼びます。この数寄は、たとえば、髪を梳く、紙を漉く、畑を鋤く、好きになるというときの「すき」とも関係があります。これらはすべて同じ言葉なのです。この「すき」の感覚こそが、非常にソフィスティケートされた日本の茶の湯とか数寄屋造りとか、日本のお料理屋さんの代表的な構造を生み出してきたんですね。
 たとえば、茶の湯でつかわれるお茶室というものは、徹底的に亭主の「好み」を生かしてつくられます。だから「数寄」であって「好き」なんですね。どこに窓を開けるか、柱を立てるかということに、それぞれの亭主による「好み」というものが出ます。それを「作分」と言ったりします。「好み」とか「作分」をいまの言葉で言うと、「趣向」とか「趣」ということですね。
こうして利休にいたって、今日、「茶の湯」といえば「侘び」というふうに皆さんが思うような、あの独特のスタイルになっていくわけです。「侘び」はもとは「詫び」、つまりお詫びするという心遣いからきています。「今日はあなたというマレなる人をお客様としてお迎えするにあたり、このような粗末なものしかご用意がありません」というお詫びの気持ちが込められているんですね。そして、床の間に生けたたった一輪の春の花をもって、満開の春の面影を亭主と客が共有していくわけです。

「数寄」と「侘び」

これらの言葉を耳にすることはありますが、その意味するところを深く考えたことはありませんでした。

数寄は「すき(好き)」であって、原型となる言葉。
髪を梳く、紙を漉く、畑を鋤く。

どの「すく」にも共通するのは、バラバラな状態に線を入れて整えてゆく、というイメージです。「作分」という言葉は、自分の好みに合うように(というよりも"しっくりくる"ように)物事に仕切りを入れて整えてゆく様子が端的に表現されているように思いました。

ということは何かを「好き」になるということは、同時に「好きではない」何かを無意識のうちに選り分けている、ということでもある。

「侘び」という言葉から連想されるのは、簡素ながら洗練されている様です。簡素にするのは「お詫びする」という心づかいが裏側にあって、簡素がゆえに「豊かな想像力を働かせる余白」がたくさんあり、その余白を主と客が共有しながらうめてゆく。その充実した時間の流れをもって、もてなしとする。

簡素であるということは、ある意味で「ごまかしがきかない」ということ。その人の「すき」の基準がありありと表現されるということ。

「すき」はとても個人的な感覚です。

自分自身のモノサシをもってスクリーニングしていく「すき」という感覚。様々な情報が「アチラ」から推薦されてくる今日この頃ですが、さらされる情報を少なくしてゆく、簡素にすることで「すき」という感覚を取り戻してゆくことができるのかもしれません。

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