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『新しい自然学』を読んで 〜 科学の無力さの方にも注意を向けるということ

今朝は物理学者の蔵本由紀さんが書かれた書籍『新しい自然学』を読みました。まえがきより一部を引用してみたいと思います。

わかることはおそろしいほどにわかるが、わからないことは皆目わからない、というのが現代科学の素顔ではないだろうか。好むと好まざるとにかかわらず、科学の時代に生きる私たちはまずこの事実を知ることが何よりも重要だと私には思われる。「之を知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知るなり」(『論語』)という格言もある。強い局部照射が周囲を見えにくくするように、知識の増大が無知の増大を意味することは大いにありうる。いびつな知がもたらす危険性に対して、私たちはひどく鈍感になってはいないだろうか。
二〇二八年一〇月二六日に、小惑星が地球に至近距離数万キロメートルまで接近するそうである。そのうちもっと正確な予測がなされるだろう。ところが、今折からの強風にあおられて空を舞う糸の切れた風船は、一〇秒後にどの空間位置を占めるだろうか。風船のサイズの誤差以内でこれを予言することが今の科学にできるだろうか。今この瞬間の風の流れに関する可能な限り詳細なデータを集め、世界有数のコンピュータをもってしても、これはまず無理ではなかろうか。
科学の強力さについては十分に宣伝が行き届いているのだから、科学の無力さの方にも多少は注意を向けるのが公平というものではなかろうか。一方的な情報しか流さない独裁国家の悲惨さを、人々は昨今思い知らされているが、一方的な情報がもたらす科学信仰も、百害あって一利なしである。
もちろん、こう主張することで科学をおとしめたり、「反科学」を宣伝しようなどという意図は毛頭ない。まったくその逆である。現代科学は少々バランスを欠いているのではないか、科学にはもう少し違ったあり方が可能なのではないか、と言いたいだけなのである。いびつに肥大化した知は無知につながる。科学の一部をやみくもに推し進める前に、科学全体のあり方を問うことが今求められていると思う。

蔵本さんは非線形動力学(非線形科学)、非平衡統計力学をご専門とされている物理学者です。同期現象(シンクロ)を数式化した「蔵本モデル」は、世界で広く知られており、特にリミットサイクル振動子のつくるネットワークダイナミクスの分野では世界の第一人者です。

「何ができるのか?何ができないのか?」「何が分かるのか?何が分からないのか?」

AIやビッグデータなどの言葉を耳にしない日はない昨今です。人によっては「テクノロジーがいつか社会の課題を全て解決してくれるのではないか」と期待されている方もいるのではないでしょうか。

テクノロジーはサイエンスの実践的応用と考えてみれば、「一方的な情報がもたらす科学信仰も、百害あって一利なしである」という蔵本さんのお言葉は、テクノロジーといかに付き合っていくのかを考える上で、とても大事な示唆を与えて下さるように思います。

たとえば「その人はどういう人だろうか?」「何を大事にしているのか?」「何が不安なのか?」など「その人らしさ(パーソナリティ)」につながる問いに対して、テクノロジーはどこまで答えられるでしょうか?

もっと身近な例をあげると「私と一緒に食べているこの料理の味を、相手は私と同じように感じているのだろうか?」という問いに対してテクノロジーはどのような解を与えるのでしょうか?

たとえば「脳のどの領域がどのぐらい活性化しているか?」に関するデータを数多く集めて、私と相手の脳活動の類似度を測定してみる。極めて類似度が高いとの結果が得られたとしても、究極的には「私が相手になってみないかぎり、味の感じ方が同じかどうか」は分からないのではないでしょうか。相手になる(憑依する?)ことができたとしても分かるのかどうか...。

一方で、たとえば脳波を利用して人の嗜好、食に対する感性を定量化し評価する研究も行われています。味の感じ方の細部は違うかもしれないけれど、このような味が好まれる傾向にある、ということまでは分かるでしょう。

話は横道に逸れましたが、日頃、AIの開発に携わっている身として、ご利用者様にご説明をする時に心がけていることは「何ができるのか」と合わせて「何ができないか」もフェアにお伝えすることです。

「現状はここまではできません」
「そもそもAIの仕組みはこうなっていまして」
「この部分は人間が担保する必要がありますし、むしろAIに委ねるべきではないと思っています」

できること・できないことの両面から知識のギャップを埋めることは、テクノロジーが人間に調和してゆく上で、私たちが生活や社会をデザインする上でとても大事なことだな、とあらためて思いました。

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