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物との関わりの中で自分の内面を探る

今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「自己の内部葛藤を媒介するシンボル」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

二十世紀の深層心理学は、シンボル化の重要な次元のひとつを詳細に描いてみせた。フロイトの心理的内部ダイナミクスの理解において、シンボルは中心的な役割を果たしている。否定的経験は、内的欲望と外的事実との葛藤の結果であるというのが長いあいだの自明の理であった。フロイトは、不幸の原因に関するこの単純な見解にひとつの決定的な洞察を付け加えた - つまり本当に心的外傷となる葛藤は、自己とその環境とのあいだではなく、自己の≪内部≫で起きる。この葛藤は、身体構造に深く根をおろした相容れない欲望と社会生活の重要な部分である≪内面化された≫制約との産物である。
ある物がどのようにして抑圧された欲望の担い手となるかは、基本的に単純である。その形や機能、名称が、欲望の居場所である身体の部分や過程に似ているものが、人間の前意識における本物の物の控えめな代理物となる。「シンボリックな関係は、かつてのアイデンティティのなごりあるいは痕跡であると思われる」(Freud, 1900, p.387)。
こうした説明は、ある程度は正しいけれど、もっと徹底的に追求されなければ還元主義的になってしまう。過去の関係をあらわす物は、それに加え現在の意味と投影された将来の意味を持つ。乳房が親指であらわされるか、毛布であらわされるか、それともウサギのぬいぐるみであらわされるかには違いがある。分析者が、対象との関係ではなく起源に関心を持つかぎり、彼らは心的活動の重要な次元を無視している。

「分析者が、対象との関係ではなく起源に関心を持つかぎり、彼らは心的活動の重要な次元を無視している。」

この言葉が印象的でした。

人間と物との関係を考える上で、起源に意識を向ける、つまり「物だけ」に囚われてはいけない、というのが著者のメッセージではないかと思います。

「過去の関係をあらわす物は、それに加え現在の意味と投影された将来の意味を持つ。乳房が親指であらわされるか、毛布であらわされるか、それともウサギのぬいぐるみであらわされるかには違いがある」という著者の言葉を手掛かりにしてみます。

何かの物を見たり触れたりする中で、たとえば「なぜだか分からないけれど落ち着く」とか「しっくりこない」という感情が湧き上がってくることがあるとすれば、「なぜだか分からないけれど」という言葉にできない部分に、その人の心の奥底にある審美眼とでもいうような何かが体現されているのではないでしょうか。

「つまり本当に心的外傷となる葛藤は、自己とその環境とのあいだではなく、自己の≪内部≫で起きる」というフロイトの言葉を読むと、自分の内面を見つめることには意味があるかもしれないけれど、それに固執してはいけないというような感覚が芽生えてきました。

物との関係性の中で自分の内面を見つめてゆく。そんなことができたらな、と。

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