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思考、感知、そして原初。

「ルーツをたどる」ことは、現在を再発見する機会だと思う。

あとで『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』から、いくつかの言葉を引いてみるのだけれど、原初の生命を想像してみると、人が用いている「(自然)言語」を用いてコミュニケーションしていたわけではないと思う。

「思考する」する以前に全力で「感じ取る」ことで、与えられた生を全うしようとしていたのだろう。原初の生命にかぎらず、生命を支えているのは、まずもって「感じ取る」力だと思う。

自分を取り巻く環境の変化、自分自身の変化。その変化を感じ取って適応し続けていくことで生命を維持してきた。一方、人間は自らの手で、つまり人工的に環境を変え、そして自分が生み出した環境変化に対して自らを適応させてきた側面もある。

いまや、大量のデータや情報の洪水の中で、それらを何とか処理し、有意と信じる何か(いや実際のところ本当に有意かは分からぬままかもしれない)を生み出し続けることに必死になっているうちに、大切な「感じ取る」力を失っていやしないだろうか。

予測すること。未来を想像すること。想像した未来に現在の自分を重ね合わせること。実現したと予測に対する誤差を修正すること。

感知すること。未来を想像しないこと。行動に対する一瞬のフィードバックを感じ取りながらほんの少し先の未来を連続的に積み上げてゆくこと。

「感じる力」を取り戻すためには、思考すること、型にはめようとすることを手放す必要があると思う。

はじめに言葉あらず - そのことだけは確かだ。とはいっても、生物の世界がかつて単純だったという意味ではない。むしろ、その逆だ。(中略)忘れないでほしい。はじめは、話し言葉も書き言葉も存在しなかった。生命調節の厳格なマニュアルの中でさえ、それは変わらない。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

40億年前に誕生して以来、生物の世界はずっと複雑だった。生命は、言葉や思考、感情や理性、心や意識などがいっさい存在しない状態から船出をした。それでも、生物はほかの生物を感知し、周囲の環境を感知していた。ここで言う感知(sensing)とは、何かの「存在」を検知する、という意味だ。感知の対象は、別の生物の存在かもしれないし、別の生物の表面にある分子の存在かもしれないし、あるいは別の生物の分泌した分子の存在かもしれない。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

感知は知覚とは違う。別の何かに基づく「パターン」を構築し、その何かの「表象」をつくり出し、心の中に「イメージ」を形成することではないのだ。一方で、感知とは、最も初歩的な種類の認知といえる。もっと驚くべきことに、生物は自分が感知してきたものに対して、知的に反応してきた。知的な反応とはすなわち、生命の維持に役立つ反応、と言い換えられるだろう。たとえば、自分の感知した対象が問題を投げかけるなら、その問題を解決するような反応こそが知的な反応といえる。

アントニオ・ダマシオ『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』

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