思考、感知、そして原初。
「ルーツをたどる」ことは、現在を再発見する機会だと思う。
あとで『教養としての「意識」機械が到達できない最後の人間性』から、いくつかの言葉を引いてみるのだけれど、原初の生命を想像してみると、人が用いている「(自然)言語」を用いてコミュニケーションしていたわけではないと思う。
「思考する」する以前に全力で「感じ取る」ことで、与えられた生を全うしようとしていたのだろう。原初の生命にかぎらず、生命を支えているのは、まずもって「感じ取る」力だと思う。
自分を取り巻く環境の変化、自分自身の変化。その変化を感じ取って適応し続けていくことで生命を維持してきた。一方、人間は自らの手で、つまり人工的に環境を変え、そして自分が生み出した環境変化に対して自らを適応させてきた側面もある。
いまや、大量のデータや情報の洪水の中で、それらを何とか処理し、有意と信じる何か(いや実際のところ本当に有意かは分からぬままかもしれない)を生み出し続けることに必死になっているうちに、大切な「感じ取る」力を失っていやしないだろうか。
予測すること。未来を想像すること。想像した未来に現在の自分を重ね合わせること。実現したと予測に対する誤差を修正すること。
感知すること。未来を想像しないこと。行動に対する一瞬のフィードバックを感じ取りながらほんの少し先の未来を連続的に積み上げてゆくこと。
「感じる力」を取り戻すためには、思考すること、型にはめようとすることを手放す必要があると思う。
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