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その言葉ってどういう意味で使っている?

今日は、福田恆存氏(評論家)による『人間の生き方、ものの考え方』から第2章「近代化とは何か」より「言葉の混乱」を読みました。では、一部を引用してみます。

現在私達が使っている大ていの言葉は、「てにをは」は別として、殆んど明治の翻訳語から出来た言葉であります。「近代化」にしろ「民主主義」にしろ、「歴史的必然性」「精神史的意義」等すべて明治以降に出来た言葉です。「自由」とか「文化」とかいう言葉は元からありましたが、今とは意味が全く違う。たとえば、「文化」というのは「文にして化する」という意味で、今日われわれが言っている「文化」とは異った意味で使われていました。そこで翻訳語からわれわれの言葉が成り立っているということが、われわれの大きな課題となって来るのであります。
例えば「文化」という言葉は「カルチュア」という言葉を訳する時に流用されたわけであります。ところが「カルチュア」は「栽培する」「培う」という言葉から出て来たもので、みなさんも受験英語で覚えたように「文化」と「教養」という二つの意味を持っています。西洋では「カルチュア」という一語の中に二つの意味が統一されております。「カルチュア」というものに対する西洋人の生活全体が、そういう言葉を生み出して来ているわけです。文化とは一つの時代、一つの民族の生き方の様式であると言えると思います。
「平和」という言葉も、それは単に戦争をしていないというだけのことです。それが日本では、戦争をしていなければ非常にいいことだ、あるいは戦争をしないことがわれわれの生き甲斐であるかのように思い始める。これは一つの錯覚であります。こういう現象はすべて、われわれの使う言葉が、西洋の翻訳語で、伝統が一つもないからです。長い間磨きがかけられた言葉ではありません。

「こういう現象はすべて、われわれの使う言葉が、西洋の翻訳語で、伝統が一つもないからです。長い間磨きがかけられた言葉ではありません。」

この言葉が印象的でした。

私達が日常生活で用いている言葉(日本語)は、ほとんどが翻訳語であり、伝統がない。これが意味するところを、あらためて自分なりに考え直したいと思いました。

本節のタイトルは「言葉の混乱」ですが「その言葉が何を意味するのか?」が人それぞれであるところから混乱が始まるのではないでしょうか。

では「なぜ言葉の意味が人それぞれとなるのか」と考えてみると、その言葉にまつわる具体的な体験が異なる、その言葉に触れた文脈が異なるからではないでしょうか。

自分が作った言葉でなければ、それは他者が作った言葉です。人が話している言葉を聞いたり、本や記事などで目にしたり。

「カルチュア(Culture)」という言葉が取り上げられていますが、西洋では文化とは生き方の様式であり、根幹には教養が必要とされるという価値観が言葉に埋め込まれている。

「言葉を磨く」とありますが、歴史の中で「教養」の重要性が再認識され、それが言葉の中に埋め込まれたのだろうと思います。逆に「カルチュア」という言葉を使うとき、歴史的な背景が想起されているのかもしれません。

「「平和」という言葉も、それは単に戦争をしていないというだけのことです。」という著者の言葉は、「いつまた戦争が起きるか分からない」という緊張を感じました。

平和という状態は自然に任せていては持続せず、一人ひとりが主体的に利害を調整する過程を通して、ある種の緊張状態の中で維持されるものである。そのようなメッセージを感じました。

言葉というのは、人の想いや歩んできた歴史を受け止める器のようなものと言えるのかもしれません。私達が日常生活で用いている言葉(日本語)は、ほとんどが翻訳語であり、伝統がないのだとすれば、伝統をこれから築いてゆく他ありません。

それは、一つひとつの言葉がある時代において具体的に何を意味するのかを記録し、埋め込んでいく営みなのだとすれば「その言葉ってどういう意味で使っている?」あるいは「なぜその言葉を使ったの?」と問いかけることに大きな意味があるように思います。

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