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日本文化の母型=彼方から此方へ(From there to here)

今日は『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「日本の奥にひそむ原型」を読みました。それでは一部を引用します。

 折口が発見した日本文化の母型というものをごくわかりやすく言うと、何かがゼア(彼方)からヒア(此方)にやってくるという型です。
 たとえば、お能というのは、たくさんある演目の多くが、亡霊とか死者とか得体のしれないものたちが、橋掛かりの向こう側から舞台のほうにやってくるという構成でつくられています。つまり橋掛かりの向こう側は異界とかあの世と呼ばれるゼアという世界である。一方、舞台はこの世であり現世です。
 ちなみに、お能では、囃子方と呼ばれる人たちが舞台に出て、笛や小鼓を演奏します。おもしろいことに、この囃子方が扱う楽器は、チューニングができないようにつくられているんです。(中略)そうして、そのときその場に出てからお互いの調子を見ながら合わせていくことが、日本の「打ち合わせ」なんですね。それぞれの異質性や違いを絶妙にアソシエーションしていくのが日本の芸能であり、お祭りであるわけです。

引用したうちにある「折口」とは民俗学者の折口信夫のことです。著者によれば、国学を志していた折口さんは柳田國男の『遠野物語』などに触れて、これこそが新しい学問だと直感し、日本各地を歩き回りながら、日本文化にある母型(アーキタイプ)を見つけていったそうです。『遠野物語』は遠野に伝わる昔話や伝承を聞き書きしたものです。

日本文化の母型として「From there to here(彼方から此方へ)」があると知って、とても新鮮でした。異界(虚)から現世(実)、From Imagination to Realityとも言えるのでしょうか。

「不可視なものを可視化する」とか「聞こえないはずのものを聞く」など。相反する事象を一つの場・器におさめてゆく。異質なものが同居する、あべこべな世界。自由というのか、きれいにしすぎないというのか、雑というのか、境界線が融けてゆく、というのか。

「彼方から此方へ」という母型の根底あるのは「分けて考えない」ということなのかもしれないと感じました。

また、「打ち合わせ」という言葉の原義が「そのときその場に出てからお互いの調子を見ながら合わせていく」というのも驚きでした。つまり、即興であり、インプロビゼーションだと。

誰かと何かを確かめてゆく営みを、「なぜ、打ち合わせと言うのだろう」とあらためて考えると、とても不思議です。

事前に入念にすり合わせて、そこから外れないように予定調和的に計画的に進めていく。それに慣れすぎてしまうと、即興の緊張感というか、生の実感のようなものを感じにくくなってしまうのかな、とふと思いました。

異質が融けあう「即興のススメ」ということ。

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