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言葉が変わると何が変わるだろう?

「日頃使う言葉が少しずつ変わってきた気がする」

そのようなことを思っています。

最近、時間のペースをゆっくり穏やかにして、自分の外側のあわただしい時の流れに流されるのではなく、自分の内側に流れる時の流れに乗るように過ごしています。

すると、不思議とふれたくなる言葉、読みたくなる本、一緒に時間を過ごしたい人、場所も変わってくるのです。

先日、「沈黙」とは「語らずに語ること」であると綴りました。

それからというもの、たとえば歩いていると、ふと「この街は何を物語っているのだろう?」と問いが浮かぶようになり、建物の記憶、街並み、歩いている人の表情など、ぼんやりとしか見えていなかった、捉えていなかった出来事に自然と意識が向いてくるようになった気がします。

思いもよらず発した言葉、浮かんだ問いによって、驚くほど世界が鮮やかに感じられるようになってくる。それは何も真新しい言葉ではなくて、むしろ使い慣れた、使い古されたような言葉かもしれません。でも、言葉の意味は流動的であり、言葉の可能性の一面しか捉えられていないことをもって、使い慣れた、使い古されたというのは言葉の可能性を閉ざしているようにも思います。

ですから、言葉や意識の変容によって世界が鮮やかに感じられるようになってくる。そんな体験をこれからも手探りで見つけながら、分かち合えたらと思います。

 こんな腐った現状を一撃で打破したいのなら、古い世界におさらばして新しい世界の扉を開けたいのなら、自分が見聞きする言葉の中身を入れ替えてしまえ。
 どんな言葉も、その中身、その概念は、その時代の文化・風潮・流行・価値観・政治的規範に染めあげられているものだ。だから、そのままの中身でその言葉を使い、かつ考えれば、やはりどうしても他の人々と同じ池の中で泳ぐことになる。
 したがって、その場所を脱したいのなら、世間や自分の言葉の中身を自分で新しく見出し、新しい形で使っていくのがもっとも手っ取り早いのだ。そこに別の世界が拓けてくる。

白取春彦『ヴィトゲンシュタイン 世界が変わる言葉』056 言葉を革新すれば世界も変わる

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