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「無目的」という目的。

「何事においても明確な目的は必要なのだろうか」と思うことがあります。

もしも人生が目的や目標への達成の連続のみから成るのだとすれば、それは一日一日、いや一分一秒の世界で自分で自分を意識的に方向づけし続けているような感覚を覚え続けるようなことなのでしょうか。

以前に「無目的が目的」ということを綴ったことが思い返されます。何かに夢中になっているとき、没入しているときは「目的を達成しよう」という意識は自分から離れていることに気がつきます。

技術の発展も「何かを解決したい・実現したい」という明確な想いが起点になることもあれば、「あるテーマそれ自身が発展可能性を含んでいて、未知の可能性を探求したい」という好奇心に導かれるように空白を埋めてゆくように進むこともあるように思います。

(要素を含まない)空集合が集合に含まれるように、無目的もまた目的に含まれるのではないでしょうか。(無と空は異なることから、本来は空目的と表現したほうが良いのかもしれません)

パソコンやスマートフォンなど、現代の技術は「いつでも・どこでも・何にでもつながることができる」世界をもたらしました。

では、「無目的で何かとつながっている時間でどれだけ夢中になっているだろうか?」と考えてみるわけですが、その時間の質は「能動的か受動的か」というモノサシで測ることができるかもしれません。

つながっているのだけれど素通りしていくような時間はおそらく受動的な時間。つながっている何かに自分が重なってゆくような時間は能動的な時間(そして、フローしている)。

どちらが良い悪いということを述べたいわけではないのですが、みずみずしい能動的な時間を体感することなくして、受動的な時間と距離を置くことが難しいように思います。

技術発展という流れのスピードが加速し続ける中において「能動的な時間とは何か。能動性の条件とは何か。」という問いを立ててみる。

直接的な答えではありませんが、日常生活における「なんとなく○○している」の中にヒントがありそうです。「なんとなく」の内実を見つめてみる。

精巧な機械を駆使することは、きみをけっして乾燥無味な技術者にはしかなった。現代技術のあまりにも急速な進歩に恐れをいだく人々は、目的と手段を混同しているようにぼくは思われる。単に物質上の財宝をのみ希求している者に、何一つ生活に値するものをつかみえないのは事実だが、機械はそれ自身がけっして目的ではない。飛行機も目的ではなくて一個の道具なのだ。鋤のように、一個の道具なのだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』

進歩の一つ一つが、わずかにぼくらが体得しかけた習慣の外へすこしずつぼくらを追い出したのだ。だから、いわばぼくらは、故国から離れはしたが、まだ新しい国家を形成するには至らない移民たちと同じようなものなのだ。ぼくらはすべて、いまだに新しい玩具がおもしろくってたまらない野蛮人の子どもたちなのだ。僕らの飛行機競争もこれ以外の意味をもちはしない。あの一機はより高く上昇し、この一機はより速くとぶ。なぜそれを飛ばすかということを、ぼくらは忘れている。競争のほうが、さしあたり、競争の目的より重視されている。これはいつの場合にも同じことだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』


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