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野生と空性の近しさ、そして解ける感覚〜健康なものは野性〜

「健康なものは野性です」

白洲正子さんの書籍『たしなみについて』の中に記されていた言葉が印象的でした。

健康なものは野性である。

もしそうだとするならば、自分の野性はどこにあるのだろう。そして、健康であるとはどういうことなのだろう。

ここでの「野性」は、生物が本来的に備えている生物を生物たらしめている性質であって、自然と内から湧き上がってくる何か、なのだと思います。

朝起きて不思議と気分が良い時、あるいは瞑想して頭の中が空っぽになった時。呼吸を止めないようにゆっくりと身体を動かしながら、やわらかさを取り戻してゆく時。何かによって縛られているような感覚が解けてゆく時。

そうした瞬間の共通項は何かと考えてみると、「あれこれと考えていることを手放してゆく」感覚だったり、その結果として「解ける」とか「空っぽ」になるという状態だったりする。

「野性」は「空性」に近いように感じるというのか、本来あるべき場所へと戻してゆく、回帰してゆくような性質のことを指すのではないか、と。

そのように思ったのです。

野蕃なもの程つよいというのはどうにも仕様のないことです。健康なものは野性です。温室の花は野性の植物よりも弱く、持って生れた人間の性は、一生を通じて変るべくもありません。大衆の力は個人の叫びよりもつよく、しかも一人間の獅子吼は大勢を動かす事もできる、それは何とも不思議なことです。

白洲正子『たしなみについて』

たとえば世界的の農業恐慌がおよそ何年のいつ頃に来ると前もってはっきり解って居ても、極めて消極的な予防をする他、人間の力をもってしては如何ともなしがたい、ーー等々と、ある日海を眺めながら私はそんな事を思っていました。荒海の、よせては返す浪をみつめつつ、私の想いは同じ様な所でしばし渦をまきます。それに、その日は大へん暑い日でもありましたので。

白洲正子『たしなみについて』

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