物との関わり方(作る・遊ぶ・考える)
今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から「心的活動パターンとしての人間」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
人間には物を作り、それを使用するという重要な特性がある。人間が相互作用する物は、生存や生存をより容易で快適なものにするためだけの道具だけではない。物は目的を体現し、技術を顕在化させ、使用する者のアイデンティティを形成する。人間は≪ホモ・サピエンス≫(考える人)や≪ホモ・ルーデンス≫(遊ぶ人)であると同時に≪ホモ・ファーブル≫(物を作る人)つまり、物の作り手かつ使い手である。こうして、物はその製作者や使用者を形作り、利用したりもする。
人間はどんな存在なのか、そして何になるのかを理解するためには、人間と物とのあいだに起きている事柄を理解する必要がある。どんな物が大切にされ、そしてそれはなぜなのかを考えることは人間に関する知識の一部となる。しかし、物が人間にとってどんな意味を持っているのかについてはほんの少ししかわかっていない。
私たちは、自己を組み立て、自己を形作り、自覚状態の対象が何であるかについての推論を可能にする幅広い経験を意味する表現を用いる。自覚状態は時間の流れの中で生じる過程であり、自己は決して直接に知られることがない。その代わり、自己知識は推論的かつ媒介的 - つまり言語や思想を構成する記号によって媒介される。推論という行為によってもたらされる自覚状態はたえず修正や変更がなされ、発達する。したがって、自覚状態は独自の統覚の静的なある一瞬としてよりも、むしろ自己統制的な過程と考えるのが適切なように思われる。
「人間は≪ホモ・サピエンス≫(考える人)や≪ホモ・ルーデンス≫(遊ぶ人)であると同時に≪ホモ・ファーブル≫(物を作る人)つまり、物の作り手かつ使い手である。こうして、物はその製作者や使用者を形作り、利用したりもする。」
この言葉が印象的でした。
人と物の間の関係に関する実証分析を進める上で、著者は「人間と物を定義しておかなければならない」と述べています。つまり、「人間とはどのような存在か?」「物とは何か?」という問いを立てています。
「そもそも人間とは何か?」という問いを直接的に考える代わりに「人間を人間たらしめるのはどのような部分だろうか?」という問いを考えてみても良いのかもしれません。
ホモ・サピエンス、ホモ・ルーデンス、ホモ・ファーブル。
考える・遊ぶ・作る。「こうした営みが人間を人間たらしめている」と言われると「たしかにそうかもしれない」という気がしてきます。
「何かを作る」「何かで遊ぶ」「何かで考える」というように、人と物との関わり・相互作用として、それらの行為が成立することが多いように思います。
何かを「作る」ことに夢中になっている時、試行錯誤している時というのは「考えている」ようでもあり「遊んでいる」ような感覚も芽生えるかもしれません。
「自覚状態は時間の流れの中で生じる過程であり、自己は決して直接に知られることがない。その代わり、自己知識は推論的かつ媒介的 - つまり言語や思想を構成する記号によって媒介される。」と著者は述べますが、「自分ははたして何者か?」と問いを立てても、なかなか答えは浮かんできません。
「どんなことに夢中になってきたか」と具体的な経験を振り返りながら、少しずつ「こうかもしれない」とパズルのピースを拾い集めて組み立てていくようにして「自分とは何者か?」という問いに対する答えがおぼろげながら見えてくるような気がします。
経験の中には「人とのふれあい」や「物とのふれあい」が必ず存在しているはずです。
物との関わりを考える上で「作る・遊ぶ・考える」という視点がヒントになるような気がします。
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