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シンボルの本来の意味は「人びとを一つにするもの」

今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「表現の三水準」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

私たちはここで、表現の意味と範囲を明確に見ることができる。人びとの使用する物は、信じがたいほどの多様性と時に相矛盾する使用法を持っている。それらは自分自身、仲間、宇宙それぞれと自分との関係を表現する図面上の記号としてあらわされる。しかも私たちは、これらの三つのレベルが、二つの様態 - ≪差異化≫と≪統合≫によって記述しうることを見てきた。たとえば、自己のシンボルは、その所有者の資質や技能、他者に対する優越性を強調するかもしれない。この場合、物はその所有者を社会的文脈から切り離し、その人らしさを強調することで差異化の過程として機能する。あるいは、物はその所有者と他者との類似性 - 共通の血統、宗教、民族的起源、ライフスタイル - の次元をあらわす場合もある。この場合、物はその所有者とその人の社会的文脈との統合を象徴的にあらわしている。
この二面性を持った弁証法は、シンボル(Symbol)という語の歴史と語源にも反映されている。古代ギリシャ語の「sym-ballein」は、「寄せ集める」「結合する」という意味であった。このことばは、やがて二人の友人が再会を期して二つに割ったコインを意味するようになった。彼らが再会したときに半分ずつのコインを結合することは二人のあいだの結びつきを意味し、それゆえコインの分割は統合という大きな目的の役目を果たした。このように、シンボルということばはもともと人びとを一つにするものを意味していた。
sym-balleinの反対語が「切り離す」「分割する」を意味し「diabolic」(悪魔的)の語源でもあるdia-balleinであることは意味深い。悪は、人間の自己を複数の対立する力に分割するものであり、ある人と他者とを区別し、人びとを宇宙に対峙させるものである。それが≪カオス≫であり、生命が依存している秩序を破壊するエントロピーの力である。

「このように、シンボルということばはもともと人びとを一つにするものを意味していた」「悪は、人間の自己を複数の対立する力に分割するものであり、ある人と他者とを区別し、人びとを宇宙に対峙させるものである。」

これらの言葉が印象的でした。

「物」をシンボルとして捉えるとき「シンボルとは何だろう?」という問いが浮かびます。それについて、以前に「シンボルとは器である」という一つの答えに辿りつきました。それはカール・ユング(深層心理学者)と原研哉(デザイナー)が自分の中で結びついたのでした。

日本の「日の丸」というシンボルは「日の丸」であって、それ以上でも以下でもない。しかし人は様々に解釈し、想いを込める。日の丸はそれらを全て受け入れる器である、と。

そして、今回は「シンボル」という言葉の語源に迫ることで、より一層その核心が明確になったような気がします。シンボルが古代ギリシャ語で「寄せ集める・結合する」という意味であった。友人が将来の再会を期して割ったコインの「結びつき」が、人と人の「結びつき」を具現化する象徴になる。

そのようなイメージを持って「日の丸」というシンボルを思い浮かべると、「器」のような存在であり、さらに想いを「有機的に結びつける」役割まで有しているとすれば「触媒」として捉えることもできる。シンボルは「器」であり「触媒」でもある。

また、悪という言葉が「人間の自己を複数の対立する力に分割するもの」として説明がなされており、とても新鮮でした。「悪」という言葉の語源である古代ギリシャ語は「切り離す・分離する」という意味があった。

分離する力として悪を捉えると、その逆、つまり「統合する力」が悪に対立する力となるのでしょうか。但し、「統合」と「支配」を混同しないように留意する必要があるように思います。

差異化(分離する力)と統合(結びつける力)。著者の言葉を借りるならばそれぞれ「優越性」と「類似性」に対応しそうです。ふと「優越性を抑えつつ、差異化することは可能なのだろうか」という問いが浮かんできました。

それは「違いを認め合う」というのか「多様性を包含する(diversity & inclusion)」というのか。

「他者より優れていたい、という気持ちはどこから湧いてくるのだろうか」「優越感の源泉とは何だろう?」という問いにも、思いがけず出会ったのでした。

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