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無意識、素直さ、そして自分。

身体を動かしている。誰かと話をしている。本を読んでいる。食事をしている。旅を楽しんでいる。音楽を聴いている。電車に乗っている。青空を眺めている。

毎日の生活は「何かをしている」の連なりであるわけですが、そこには自分の存在を意識するとき、意識していないときの二つのモードがあるように思います。

たとえば、道を歩いているとき。自然の風景の一つひとつを胸にしまってゆくように、自分の心のうちに丁寧に染み込ませてゆくように歩を進めていると、自分の存在に対する意識は薄れ、自然と自分の外側へと流れ出てゆく。

外を走っていると、走っているリズムに次第に落ち着きを取り戻してゆき、走っていることを意識しなくなってゆく。いまの時期でいえば、桜が立派に咲き、風に舞い散る様子を眺めていると、気づけば時間を忘れている。

「意識を手放そう」と"意識する"ほど、意識にとらわれてゆくような感覚が立ち上がってくることもありますが、そのような時に意識される自分よりも何かに夢中になっていて「意識されない」自分こそ、本来の自分なのかもしれないと思うわけです。

「文章を書こう」と思うと言葉が出てこなくなってしまう。上手に書こうとしなくても、ただただ降りてくるままに言葉を書き留める。脈略がなくても話が飛んでいても、素直に降りてきた言葉を大切にしたいと思うわけです。

何かを取り入れよう、取り入れようとするよりも、むしろ何も入れずに空っぽになってゆくほうが、素直さがにじみ出てくるような気がします。

自分というものは何だろうか。自分は本当に在るのだろうか。在ると思っているだけなのだろうか。(中略)赤ん坊を見てみよう。私自身四月生まれだから、自分に例をとって四月生まれとすると、数え年で三つまで、つまり生まれて三十二ヵ月の間には、ふつうにいう自己、つまり「自分を意識しているということ」は見られない。これが童心の時期である。といっても、ひとくちにいえばそうだということで、くわしく見れば、自分という意識は、生まれてから六十日くらいの子の目の中にすでに動いていることがわかる。

岡潔『日本のこころ』自己とは何ぞ

四つになれば、理性の原型と時空が出て、同時に運動の主体としての自分を意識するようになる。しかし自他の別はまだ意識できない。敬語の「御」という言葉をつけさせれば、自分につけたり他人につけたりする。五つになれば感情、意欲の主体としての自分を意識するようになる。そうするともう自他の別もはっきりつく。これで自分という意識の根幹ができたわけである。ふつうに人が自分と思っているのは、この自己を根幹として枝葉を添えたものといえる。だからこの後ふつうにしていれば、その人は絶えず自分があると思っているわけである。

岡潔『日本のこころ』自己とは何ぞ

ところが、大脳前頭葉の抑止力を適度に働かせると、その自分を消し去ることができる。そんなに簡単に消してしまうことのできる自分が、本当の自分であるはずはない。しかも、ふつう自分と思っているような自分を消し去っても、なお自分は残る。これが本当の自分だといえる。この自分を真我と呼ぶことにする。これに対して、ふつう人がそう思っているような自分を、仏教では小我と呼ぶ。

岡潔『日本のこころ』自己とは何ぞ


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