人を「束ねる」物と「分化させる」物
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「社会的統合シンボルとしての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
目に見えない心的過程を体現するにせよ、その持ち主の力や威光を示すにせよ、物は個人を≪差異化≫する手段として、すなわちある人が他者にない個人的特性を目立たせるのに役立っていた。しかし個性の涵養は、統合といういっそう大きな目標に貢献する。なぜならば、自分自身を他者と区別しようとする意図は、それに意味を与える他の人びとを必要とするからである。
もし他者との区別を究極の目標として追求するならば、差異化は結局のところ個性どころかカオスを招くだけだろう。つまり、差異化ですら、コミュニティ内の融和的生活の実現を目的とすることになる。記号がいかに、その融和に寄与するかは別の領域の問題であり、そこでは文化人類学者が、そうした過程の豊富な実例を提供している。
デュルケームは、宗教は慣習や儀式の体系として始まったと論じている。宗教の目的は、社交経験を通してしかその存在を知ることのできない、広がりを持った偉大な力に個々人を関連づけることである。この力はどこにでも存在するものとみなされているが、特にある部族とその分脈にかかわりの深い一定の場所や動物、植物あるいは物においてとりわけ強力なものと考えられている。この精霊の力の貯蔵所は、文化によっては≪トーテム≫と呼ばれる(Durkheim, p.121)。
「もし他者との区別を究極の目標として追求するならば、差異化は結局のところ個性どころかカオスを招くだけだろう。つまり、差異化ですら、コミュニティ内の融和的生活の実現を目的とすることになる。」
この言葉が印象的でした。
物の所有は「持てる者」と「持たない者」という形で、人びとの間に目に見える形で差異を生み出します。一方、差異を作るために物を所有するのか、個人の差異(内面、所得など)が所有する物の差異を生み出しているのか。
両面あるようにあるように思いますが、「もし他者との区別を究極の目標として追求するならば、差異化は結局のところ個性どころかカオスを招くだけだろう。」という著者の言葉は、差異を作るために物を所有する行為に警鐘を鳴らしているようにも思いました。
つまり、大事なのは涵養、つまり「物との関わりを通して、個人が目標を見出して心的エネルギーを注いでいく」という能動的な解釈過程であり、それが毀損されてしまうと本末転倒である、ということではないかと。
涵養は「個性の発露」という形で顕在化し、それが社会全体で調和することで初めて物との関わり合いが有意義なものとなる。そのようなメッセージを著者は伝えているように思いました。個性の発露は、木々が自然と枝分かれしていくような、分化してゆく過程のようにも捉えられるかもしれません。
また「この精霊の力の貯蔵所は、文化によっては≪トーテム≫と呼ばれる。」というエミール・デュルケーム(社会学者)の言葉が引かれています。
「トーテムポール」という柱状の木造彫刻の名称を耳にしたことがあるかもしれませんが、人々を束ねる力(時として精霊という姿をとる)のシンボルとしての「物」です。
物には「人々を束ねる」物と「人々を分化させてゆく」物の二種類がある。物を眺める大事な観点が、また一つ。
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