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こころを"環境と行為の関わりのプロセス"と捉える〜生きものの行為を考えるために、生きもの"だけ"から発想しないということ〜

「こころは環境と行為の関わりのプロセスである」

アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」という概念に関する書籍『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』で記されている言葉です。

Wikipediaを参照すると、アフォーダンスは「環境が動物(有機体)に対して与える意味や価値」と述べられています。関わりとは「時間的な変化を伴う相互作用」であり、その中で個々の動物にとっての固有の価値や意味が引き出されていく。

私が時折考える問いの一つに「こころとは何だろう?」があります。

さらに「もし世界の時間が止まったら、そこにこころはあるのだろうか?」という派生した問いも浮かび、「こころが時間を伴う現象だとするならば、時が止まった世界では、こころは存在しないのではないか」と感じます。

一方、あとで言葉を引くように「生きものの行為について考えるためには、生きものだけから発想していてはだめだ」と述べられており、たしかに「こころ」について考える時に自分を取り巻く環境のことを無意識のうちに捨象しているのかもしれません。

ここでふと、ヨガに取り組んでいるとき、自分自身に働きかけて、自分自身と相互作用が連鎖していると考えると、「自分自身も環境に含まれるのではないか」という問いが浮かんできました。とすると、自分という存在は閉じているのではなくて環境に向かって開かれているのではないか。人は自分自身とつながっている時にこころを感じているのではないか。

ふと降りてきた一つひとつの問いを大切にしたい。そのように思います。

私たちは、明治以来、西欧の文化を大急ぎで取り入れて、その中で生活してきている。そのため大抵のことは皆知っていると思っている。しかし果たしてそうであろうか。(中略)私たちは自然のことはよく知っていると思っている。何よりも自然はあると信じている。しかし自然があるというのは何に拠るのだろう。たとえば、前に花園がある。ダッチ・アイリスや牡丹はもう散って、いま三色菫と雛菊が咲いている。芍薬の莟もだいぶふくらんでいる。この花園であるが、なぜあると思うのだろう。

岡潔『日本のこころ』

目で見ればわかる。歩いて行って手に触るともっと確かにわかる。花の一つを摘み取ることができる。そうすると見ている人々に一様にその花は摘み取られたとわかる。だから実際あるではないか、というのである。しかし、目で見ればわかるのはなぜであろう。これに対して、医学はいろいろ説明している。しかしこれは初めの問題の形を変えただけであって、本質的な答えは少しも与えていない。この「わかる」はこころの働きだというより仕方がない。

岡潔『日本のこころ』

アフォーダンスはフィジカルであり、バイオロジカルでもあり、サイコロジカルなことである。物であり、生きものに関係しており、そしてぼくらが「こころ」とよんでいる環境と行為の関わりのプロセスの中心にあることである。(中略)ギブソンが考えたことは、生きものの行為について考えるためには、生きものだけから発想していてはだめだ、ということだ。ギブソンはダーウィンと同じように、サンゴやミミズがしていることはそのまわりに起こっていることと一つのこととして考えなければなわからないと考えた。生きもののしていることをわかるためには、生きものがどのようなところで、何に囲まれて生きてきたのか、生きているのかを知らなくてはならない。

佐々木正人『アフォーダンス入門 知性はどこに生まれるか』

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