拍子とリズムの違いは何だろう?(ゆらぎ、そして自由)
昨日は「気分が乗るとはどういうことか?」という問いに始まり、「乗る」と「流れる」のつながりを見た。
環境に働きかけているうちに、「内在していた」道が次第に浮かび上がってくる。最初から全体が見えるものではなく、徐々に出来上がってくるもの。動き続けているとリズムが生まれ、そのリズムに慣れてくると「気分が乗ってくる」のかもしれない。
そこで参照した書籍にある「リズムは形式の創造者である」との言葉の余韻が残っていて、今日は「リズムとは何か?」との問いに向き合ってみたい。
問いを考える足場として、ルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』からいくつかの言葉を引いてみる。
著者の言葉を受けて「拍子とリズムの違いは何だろう?」という問いが浮かび上がってくる。
「拍子が同一者の反復だとするならば、リズムは類似者の再帰だといわねばならない。」そして「有機体においてはすべてが更新するのであって、反復はしない。反復は計算しうるが、更新は評価しうるのみである」との著者の言葉から、拍子は「ゆらぎを伴わない」のに対して、リズムは「ゆらぎを伴う」との違いが浮かび上がってくるように思う。
拍子は固定的な「型」のようなものであり、リズムは拍子という型の内部を満たしてゆく内実、あるいは流動系とも言えるのかもしれない。
著者は呼吸や歩み、泳ぎといった動作を例に挙げている。それらはたしかに周期や規則性は伴っているけれども、厳密には一定ではない。呼吸も長さ、速さの違いを伴いながらも、円環的に行われる。
その意味で、リズムは「自由」を伴っている。寸分違わない機械的な時間の流れに厳密に合わせるものではなく、リズムそれ自身が、それ自身を最も自然な流れと調和させてゆくように恒常的であり、完全にランダムというよりもそれまでの流れを引き継ぎながら再帰的に自己生成してゆく。
型に合わせながらも、型に従うのではなく、型に囚われない。拍子とリズムの関係は守破離の精神につながるように思える。リズムは自由とゆらぎと共にある。
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