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拍子とリズムの違いは何だろう?(ゆらぎ、そして自由)

昨日は「気分が乗るとはどういうことか?」という問いに始まり、「乗る」と「流れる」のつながりを見た。

環境に働きかけているうちに、「内在していた」道が次第に浮かび上がってくる。最初から全体が見えるものではなく、徐々に出来上がってくるもの。動き続けているとリズムが生まれ、そのリズムに慣れてくると「気分が乗ってくる」のかもしれない。

そこで参照した書籍にある「リズムは形式の創造者である」との言葉の余韻が残っていて、今日は「リズムとは何か?」との問いに向き合ってみたい。

問いを考える足場として、ルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』からいくつかの言葉を引いてみる。

どんな振子時計も数学的に正確には動いていない。だが、その正確さの欠如はふつうめだつ限界にはるかおよばないほど〔ごくわずかな程度〕であり、したがって、現象の範囲にはいらない。それに対して、自然の水波はいずれも振子の場合とはっきり異なる。拍子が同一者の反復だとするならば、リズムは類似者の再帰だといわねばならない。さてまた、類似者の再帰は、過ぎ去ったものとの関係において、その過ぎ去ったものの更新を表すので、単的に「拍子は反復し、リズムは更新する」と言うことができる。

ルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』- 第六章 反復と更新

リズムの生命所属性は、拍子の精神所属性とは反対に、持続性の事態におけるよりも更新の事態においてより鋭く現われる。(中略)これにたいして、精神のない自然には模像も反復もない。どんな水波もまえの水波の模像ではなく、どんな幼樹も母樹の、どんな幼獣も母獣の、どんな木の葉も他の葉の、どんな獣皮の毛も他の毛の模様ではない。自然界はその推移のうちにたえずくりかえし新しいものを生み出す。しかし、その無数の系列のなかの区別しうる個々の部分はたがいに類似している。

ルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』- 第六章 反復と更新

有機体においてはすべてが更新するのであって、反復はしない。反復は計算しうるが、更新は評価しうるのみである。したがって、飛び行く渡鳥の羽ばたきのなかに、未調教の馬の速歩のなかに、魚が波状に体をくねらせて泳いで行く姿体のなかに、リズミカルな脈動があるとみなすとき、それはそのまま理解できるだろう。しかし、たとえばわれわれがほんの一時間でも拍子に合わせて呼吸することができないとおなじように、動物が拍子に合わせて飛んだり、駈けたり、泳いだりできない事実をつけ加えて示すならば、このことをもわれわれはそのとおりだと言わざるをえないだろう。

ルートヴィヒ・クラーゲス『リズムの本質』- 第六章 反復と更新

著者の言葉を受けて「拍子とリズムの違いは何だろう?」という問いが浮かび上がってくる。

「拍子が同一者の反復だとするならば、リズムは類似者の再帰だといわねばならない。」そして「有機体においてはすべてが更新するのであって、反復はしない。反復は計算しうるが、更新は評価しうるのみである」との著者の言葉から、拍子は「ゆらぎを伴わない」のに対して、リズムは「ゆらぎを伴う」との違いが浮かび上がってくるように思う。

拍子は固定的な「型」のようなものであり、リズムは拍子という型の内部を満たしてゆく内実、あるいは流動系とも言えるのかもしれない。

著者は呼吸や歩み、泳ぎといった動作を例に挙げている。それらはたしかに周期や規則性は伴っているけれども、厳密には一定ではない。呼吸も長さ、速さの違いを伴いながらも、円環的に行われる。

その意味で、リズムは「自由」を伴っている。寸分違わない機械的な時間の流れに厳密に合わせるものではなく、リズムそれ自身が、それ自身を最も自然な流れと調和させてゆくように恒常的であり、完全にランダムというよりもそれまでの流れを引き継ぎながら再帰的に自己生成してゆく。

型に合わせながらも、型に従うのではなく、型に囚われない。拍子とリズムの関係は守破離の精神につながるように思える。リズムは自由とゆらぎと共にある。

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