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時間の複数性〜取捨選択と経験の意味性〜

生物の寿命は細胞分裂回数の有限性によって定められています。

生まれて、成長し、老いを経て死に至る。はたして人生は長いのか、短いのか。

人間の平均寿命と比較した場合、より長く生きる生物もいれば、短命な生物もいます。

ふと、思うんです。人間以外の生き物にも時間が長いとか、短いという感覚が、あるいは時間の流れが速いとか遅いという感覚があるのだろうか、と。

時計の針を刻む、あるいは日の出と日の入りの回数を数える(これも同様に時を刻む、区切りを入れる営みです)。

「数えて記憶する」

もし仮に人の寿命の長さが無限大だとしたら、不老不死だとしたら、時を刻む意味はどこにあるのでしょうか。

人生の長さが有限だからこそ、すべてを選ぶことはできず、「選ばないこと」に意味があります。

時の流れがゆっくり感じることもあれば、速く感じることもある。それぞれの時間の中に、固有の経験が内在しているとすれば「どのような時間の流れの中に身を置くか」という問いが大切なように思えてくるのです。

幹細胞は体づくりの中で興味深い存在です。細胞死のところでも述べましたが、体をつくる細胞がそれぞれの役割に分化し、はたらきを終えると死ぬという運命の中で、幹細胞は新しいものを産み続けます。よく知られているのが皮膚です。表皮細胞は角質化してはがれ落ちますが(アカ)、内部にある幹細胞が分裂し、その一部が表に出て暫くはたらいた後、また死んでいくというわけです。幹細胞は一生の間、新しい皮膚を供給するわけで、その意味では個体が生きている間は不死です。

中村桂子『生命誌とは何か』

すでに、生と死が共存することを見てきましたが、形づくりと維持の中での生と死を細かく見ていくと興味深いことがあります。その一つが再生。トカゲのシッポは再生しますし、プラナリアは切っても切っても再生します。プラナリアの場合、幹細胞が体中に分布しており、条件が悪くなると自分で体を切って無性的に増殖することも知られています。私たちは、怪我をした時に皮膚や骨が再生してくる程度であり、複雑化の代償としてその種の生命力は失ったと考えざるを得ません。生きものとしての能力をどのようなところで見るかによって、どの生物がうまくできていると考えるかが違ってくるわけです。

中村桂子『生命誌とは何か』

第1章で複数の時間をもつ大切さに触れましたが、それは同時に複数のものさしをもつことでもあります。なんでも人間中心に見るのではなく、再生という面から見ればプラナリアってすごいんだと思うものさしも大事です。

中村桂子『生命誌とは何か』

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