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純粋性と本来の呼吸〜いき:粋・意気・息〜

純粋。

この言葉には、どこか神秘的で美しい響きがある。

何となくの印象で「純粋」という言葉を一面的に捉えてしまっては、言葉の持つ奥行きを損ねてしまうのではないか、という気もする。

混じり気がない。

純粋という言葉の中心にはあるのは「混じり気がない」ということであり、逆に言えば「混ざりあった状態を分離し続けた極限」として定義することが出来るかもしれない。

サックスという楽器を吹き始めて幸運だと思ったのは、その音色を通して「純粋の多様性」が在ると気づいたこと。

私の場合はクラシック音楽から始めたのですが、「純粋な音」とは「透明感があって艶やかで豊かな音」という印象が強いです。雑音のない澄み渡った音。

一方、ジャズのサックスを聴いてみると、どこかザラザラとしていて、息がかったスモーキーな音にも美しさを見出す瞬間が訪れて、「あぁ…なんて純粋なんだ…」と頭を通り越して真っ先に心が感じてしまう。

と考えてみると、純粋さというのは「音」という物理現象よりも、その音を奏でる人の心意気に内在しているのではないか、と。そう思えてきます。

純粋とは「純」な「粋」ですが、粋の読みは「いき」であり、偶然ながら「いき」は「意気」でもあり「息」、つまり呼吸でもある。

粋、意気、息。

言葉遊びのように思えるかもしれませんが、「いき」という音を通して、一見違う物事につながりの可能性が見出される。

純粋とはきっと、万物が固有にリズムを刻んでいる「本来の呼吸」に根ざしているのではないでしょうか。

純粋性という事について。およそ世の中の最初の物と、最期の物が最も純粋である筈です。が、そんな物をはたして私達が知ることが出来るのでしょうか、この極めて無知な人間というものが。

白洲正子『たしなみについて』

最初の物は、過去の遠い遠い霞の中に姿を没しています。最期の物、- 原子爆弾が破裂した瞬間の白い光といった様な、そんな物は想像は出来ても、それは過去と同じ様に、もやもやとした霧のかなたにひそんでいます。ただ、過去の、もはや責任を持たなくてもよい背後のものは、春の霞さながらにひょうびょうとして、思い出の様に美しい物であるにひきかえて、なべて未知のものに、人々は、秋の霧の様につめたい不安を感じるものです。

白洲正子『たしなみについて』

私達がはっきり見る事の出来るものは、ですから、ほんとは面白くも何ともない現在のありのままの姿だけと言えます。それは、人間と同じ様に、(いかに美しくみえようとも)決して純粋に純粋とは言い得ないものばかりです。

白洲正子『たしなみについて』


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