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知識、文脈、そして情報〜未知から"生きた"既知へ〜

普段の生活で何気なく使っている「情報」という言葉。

ある人にとっては「情報」でも、別の人にとっては「情報」ではないということがあるだろうか、という問いを考えてみます。「そもそも情報とは何か」という問いは情報という言葉を定義するもので一旦ここでは脇に置きます。

じつは「役に立つ・立たない」あるいは「意味がある・ない」という前提が隠れていて、(役に立つ・立たない)情報、(意味がある・ない)情報という分類の中で、あるい人にとっては情報である(=役に立つ・意味がある)が、別の人にとっては情報ではない(=役に立たない・意味がない)ということが起き得るのではないか、と思います。

「役に立つ・立たない」あるいは「意味がある・ない」の分岐点は「知識」「文脈」かもしれません。

既に知っていることであれば、出来事・物事を解釈して(役に立つ・意味のある)情報として捉えることができる一方、未知の出来事・物事を情報と捉えることは難しいかもしれません。

それでも「きっと何かを伝えようとしているんだ」と理解、解釈に努めようとする姿勢なくして、未知の出来事・物事を「生きた既知」へと変換することは叶わないのだと思います。

「生きた既知」に変換されるタイミングはいつ訪れるか分からず、遠い遠い未来の話かもしれませんが、突如として霧が晴れるように見通しが良くなる瞬間の訪れを、誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。

とは言ったものの、そもそも「意味」とは何でしょうか。(中略)本書で言う「意味」のニュアンスは、「情報」と対置すると明らかになります。「情報」は、客観的でニュートラルなものです。たとえば、「明日の午後の降水確率は六〇パーセントである」。これはふつう情報として受け止められます。友人の「明日の午後の降水確率は六〇パーセントだよ」という発言に対して「ありがとう」と言ったら、それは「情報をありがとう」「大事な情報を教えてくれてありがとう」という意味です。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

それに対して、たとえば恋人の言う「あなたは石頭だ」を情報として受けとってしまったら、きっと次にくるのは別れの言葉でしょう。これはむしろ感情の吐露です。ここであなたがすべきなのは、メモをとることではなく、恋人の感情に対して、なだめるなり反論するなり、アクションを起こすことです。報告者が自分の主観を述べたものは情報ではありません。情報とは、報告者の主観を排した、客観的な内容のことを指します(天気予報だって厳密には予報士の「判断」なので、そもそも本当に客観的な情報など存在するのか、という疑問にはここでは立ち入りません)。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

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