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心を下支える"変化"や"流れ"〜和食の心という表現を通じて〜

「心とは何か?」という問いは古くから考えられてきていて、宗教や生物など、様々なアプローチのもとで様々な答えが存在している問いです。

そもそも「心とは何か?」という問いは「心をどのように定義するか?」という問いに始まり、「万物に共通する」心、普遍的な心というものを探る営みへとつながってゆく。

もしも万物に共通する普遍的な心が「目に見える」ものであれば、何らかの合意のプロセスを経て「存在証明」という形で決着がつくかもしれません。

しかし、いわゆる心は不可視であり、ゆえに「目に見える」という形で存在を証明する、答えを出すことは困難です。

また、心が存在するのであれば、それは生物だけに存在するのか、あるいは無生物にも存在するのか、という問いも広がります。

たとえば「和食の心」というとき、心は「本質」や「真髄」のニュアンスを帯びています。では、なぜ「和食の本質」や「和食の真髄」と表現せずに、「和食の心」というのでしょうか。

「本質」や「真髄」はどこか「唯一の真理」を指していて、「唯一の真理」は静的な感じを受けます。

一方、「和食の心」、なぜか和食にふれる「人の存在」が思い浮かぶのです。「和食を味わう」という行為を通じて、その人の中で何かしらの「変化」が生まれてゆく。そのような変化には動きがある。「流動的」だと感じます。

つまり、心という概念を下支えるのは「変化」や「流れ」であり「変化すること」や「流れること」に共通する普遍性を探ることが「心とは何か?」という問いを深めるヒントになるような気がします。

心とは、自動車やコンピュータのように、システムそのものが固定されていて、その間を何かがぐるぐる流れることによって現れるのか、あるいは生命のように、内部自身が変わりながらによってしか現れないのか。後者の立場をとるなら、自動車やコンピュータは入力をしても中身が次々と変わるわけではないので心はもてない。しかし、システムそのものが、入力される物質と区別できないようなやり方でどんどん変わってゆくようなシステムを作ることができれば、心が現れるのかもしれない。

池田清彦『初歩から学ぶ生物学』

「心は生きているものにしか存在しない」とは、まさにそういうことであり、生きているシステムとは、オートポイエーシス的なものだ。心もオートポイエーシス的なものだとすると、自分自身をどんどん変えながら、なおかつ自分は自分だと思えるシステムを人工的に作れば、おそらく心は作ることができる。

池田清彦『初歩から学ぶ生物学』

コンピュータにもいろいろな種類があるが、いわゆるシリコンチップのようなものを使っている限り、心は現れないだろう。しかし、バイオチップではないが、タンパク質や糖などでコンピュータを作ることができれば、心はあらわれるのかもしれない。そして、オートポイエティックなシステムが複雑になると自動的に心が現れるのであれば、また、そのようなシステムを人工的に作ることが可能になるのであれば、人間と違うタイプの心を作ることもできるはずである。しかし、その心がどういう心なのかを記述することはできても、心そのものはやはり当人でなければわからない。

池田清彦『初歩から学ぶ生物学』

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