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偶然と多様化〜ちょっと面倒な有性生殖が残り続けている意義〜

「相手を必要とする」

ある意味では面倒とも言える有性生殖が、なぜ今も存続し続けているのか。

書籍『生命誌とは何か』の中で、「有性生殖の意義の一つは多様化にある」と述べられています。

有性生殖は相手を必要とするわけですが、その相手との出会いは必然なのか、あるいは偶然なのか。

無性生殖であれば「自分の自分による自分のための複製」を繰り返すことで自分の存在を保ち続けることができるわけですが、そのような複製は過去の繰り返しというのか、決まった入力があり、決まった出力を返すプログラムを永遠に実行し続けるようなものなのかもしれません。

一方、予期せぬ出会いがあるからこそ、過去の延長戦上にはない未来を描くことができるというのか、逸脱する自由をもたらしてくれます。

本・人・旅。

これらもまた、他者との予期せぬ出会いをもたらしてくれる契機です。

同じ本を読み直してみる。同じ人に出会い直してみる。同じ場所への旅を重ねる。

たとえ同じ物事にふれるとしても、時が変われば以前には気付かなかった、見出せなかった新しさを感じることがあります。

生命を自己生成系として捉えてみる。それは「自己だけで完結する」というよりもとして捉えるほうが自然なように思います。

有性生殖は、無性生殖と比べて相手を必要とするだけ不便です。しかし、二倍体細胞の死を救うためにはそれが必要だったので面倒とはいっていられなかったのでしょう。すると、ここでどうしても、なぜ死を伴う二倍体という選択がなされたのかと聞きたくなります。でもこれは、なぜ二倍体細胞は死ぬのかという問いになり、ここでグルグルまわりをしてしまい答えはわかりません。ただはっきりしていることは、私たち人間を含めて、地球上の生物の多くは、二倍体細胞の多細胞生物として存在し、有性生殖をし、その結果、細胞の死だけでなく個体の死を存在させるような生き方をしているという事実です。

中村桂子『生命誌とは何か』

そこでまたこうまでして得たものはなにかという基本的な問いが生じます。この答えも明確に存在するわけではありませんが、まず考えられるのが多様性です。無性生殖では同じ細胞がふえていくだけですから本質的には多様化は望めません。時々変異が起き、しかもそれが環境にうまく適合して新しい性質として残るという稀な現象でしか変化は起こらないので、多様化しようとすれば有性生殖が不可欠です。

中村桂子『生命誌とは何か』


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