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自分の時間を誰かに与えることの大切さ

 ジャンルの違う2冊の書物を読みました。認知症についての本と、若者に届く話し方についての本です。両者が取り上げる対象は認知症と若者で全く異なりますが、共通して教えられたことがあります。相手のために自分の時間を使う大切さです。前者の本では、認知症の方を理解できない人と決めつけるのではなく、何がしたいのか、なぜそうしたいのかを時間をかけて理解していくことの大切さが書かれていました。後者の本では、若者に届く話をするために、実際に若者たちの和に入って一緒に遊び、話を聞き、時間をかけて彼らを理解することの大切さが教えられていました。接する対象は違っても、時間を与える大切さを教えている点は両者に共通しています。

 ある著名な会社経営者の方が「自分の時間を奪う人からは距離を取れ」と発言されていました。効率を優先するビジネスの世界では、これが正しいのかもしれません。しかし現代はこの考え方が強すぎて、誰かのための時間を与えることを忘れがちになっているように思うのです。認知症の方に自らの時間を与えることを惜しめば、自らの理解をその方に押し付けて接するしかありません。若者たちに自らの時間を与えて理解することを惜しめば、世代間ギャップを理由に彼らを自分とは違う人種とみなすことしかできません。これは、認知症の方や若者に限りません。自分が理解できない方に対して時間を与えなければ、その人を理解することはできません。その無理解が人と人との分断を生み、社会の生きにくさの一因になっているように感じます。

 かくいうわたしも、かつてコンサルタントとして働いていたときには、自分の時間をいかに守るかに腐心していました。コンサルタントという職業は、何か物を作って売るわけではありません。知識と時間が売り物です。ですからなおさら、自らの時間を守ることにはシビアでした。自分の時間を増やすために、無駄を省き、人を雇って手伝ってもらいました。こうして増やした自分の時間を何に使うのかといえば、結局新たな稼ぎのために使うことになります。それで収入は増えるのですが、いくら時間を増やしてもきりがないですし余裕もなかったように思います。

 牧師となった今、困った人がいれば相談にのり、誰かが入院すればお見舞いに行くというように、誰かのために自分の時間を使うことが仕事になりました。本当に多くの時間が必要です。多くの時間をかけて関わった方が、結局教会を去っていくこともあります。コンサルタントの時代の物差しで見るならば、そのような時間は成果を産まない無駄な時間だったということになるでしょう。しかしその無駄になるかもしれない時間を、今関わりを必要としている方々のために惜しまず与えていくこと。このことをとおして、相手の居場所や安心感が形成されていくのです。皆がもっと誰かのために時間を使うことのできたなら、もっと安心して暮らせる生きやすい社会になっていくはずです。日本もそんな国になってくれたらなと願っています。

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