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芸術の中の芸術

アリストテレスの『詩学』が、岩波文庫版と光文社古典新訳文庫版の2種類の翻訳を読んでも、なかなか理解できなかったのだけれども、ウィトルウィウスの建築書と比較することによって、ようやく腑に落ちた。

アリストテレスの『詩学』は、総合芸術としての詩、すなわち劇の形をとった詩についての本なのである。ソフォクレスやアイスキュロス、エウリピデスのギリシャ悲劇、そしてシェイクスピアの劇は詩である。

建築同様、詩は近代になって、総合芸術ではなくなった。もう一度、総合芸術としての詩を目論んだのは、フランスの象徴詩人ステファヌ・マラルメの原−書物の構想であった。グスタフ・ルネ・ホッケは、マニエリスム論『迷宮としての世界』の姉妹編『文学としてのマニエリスム』(種村季弘訳、平凡社ライブラリー、2012年。元本は現代思潮社、1971年)の中で、こう報告している。

マラルメの遺稿のわずかな残余は、すでにいったように、現在刊行されて注釈研究されている。問題の遺稿は、とりあえず〈本(ル・リーヴル)〉Le Livre と名づけられている〈厖大な作品〉の構想である。それは〈詩と宇宙との密接な関係〉を明示するものだが、その場合、詩が純粋であるために、詩はその〈夢幻的−偶然的性格から解放される〉(マラルメ自身ある書簡のなかでそういっている)。くだんの〈本〉は〈美〉を反映するはずだ。それは絶対の〈光輝燦然たるアレゴリー〉を包含しているはずなのだ、たとえこの絶対が〈無〉であることになろうとも。この詩的世界−書物をめぐる努力をマラルメは絶対をもとめる錬金術師の探求になぞらえる。彼は典範としてレオナルド・ダ・ヴィンチの名をも挙げる。この点についてはノヴァーリスの断章のなかにそれ自体としてきわめて謎めいた命令法が見られる。〈一冊の書物のなかに宇宙を見出すという課題〉。さらにまた〈超越的な詩を加工することから、超越的世界の象徴的構成の法則を把握するトポスが期待される〉。マラルメはフランス革命後の宗教的信仰の弛緩を由々しい悲劇と判定する。いうまでもなく彼は、宗教的なものを啓示宗教の形象や手段によって伝達することが彼の時代の詩人にとっては困難であると考えたのである。真正なるもの、最後のものとして彼に残されているのは、宇宙的なものの論理的構造よりほかにない。(中略)

マラルメの構想のうち保存されている部分はわずかである。建築家の、幾何学や代数学の記号を思わせるスケッチ線や十字や括弧で縦横に結びつけられた一見無意味な言葉の群などだ。それは、ヴァレリーと同様、みずから工人−ダイダロスをもって任じていた一人の詩人のもっとも内密な工房の奥処に驚くべき一瞥をあたえるものである。ここに構想されているのは、あまたの組み合わせを手段として〈すべて〉を包括することになるはずの、一個の秘密暗号文書である。マラルメの言葉はよく知られている、〈地上の万物は、一切の書物のなかに流れ入るために存在する〉Tout au monde existe, pour aboutir à un livre. この世界書物はオルフェウス的でなければならぬ。一定の方式によってマラルメはオルフェウス的世界智を、しかも〈数学的言語〉を用いて採集しようとした。この着想の刺戟源としては、ノヴァーリスのロマン派的−マニエリスム的断章とヴァーグナーのすべての芸術の結合という観念がともに与(あず)かって力あった。全十分冊となるはずの問題の本は朗読書として考えられていた。それは一連の祝祭的〈上演〉において伝達されることになっていた。

G.R.ホッケ『文学としてのマニエリスム』(種村季弘訳、平凡社ライブラリー、2012年、p.103-105

マラルメの超−書物の構想は、その片鱗を、1897年に『コスモポリス』誌に彼が発表した『骰子一擲』Un coup de dés jamais n'abolira le hasardから窺い知ることができる。さまざまに異なる書体や文字の大きさを用い、「骰子一擲、いかで偶然を廃棄すべき」Un coup de dés jamais n'abolira le hasardという軸になる一文と、それにまつわる複数の挿入節の文章で構成された作品である。


この視覚詩をコンクリート・ポエトリーと称する向きもあるが(高山宏「白のメトドロジー―詩人ステファヌ・マラルメの世紀末」1986年)、形態に関心のあるアポリネールの『カリグラム』や北園克衛のデザイン詩と十把一絡げにすべきでない。朗読されることを想定し、字体と間(ま)によって、読み方を指示してある、楽譜のようなものなのである。おそらくは、複数の朗読者を想定しているであろう。「それは一連の祝祭的〈上演〉において伝達されることになっていた」(ホッケ)。

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いっぽう、「すべての芸術の基礎を成す、その本質としての詩」という捉え方が存在する。哲学者のマルティン・ハイデッガーは、果たして本当に芸術をわかっているのか甚だ疑わしいけれども、かくのごとき詩についての捉え方をいいあらわした文章を書いている。次のようなものである。

存在するものの空け開けと伏蔵〔との闘争〕としての真理は、詩作されることによって生起する。すべての芸術は、存在するものそれ自体の真理の到来を生起させること[Geschehenlassen der Ankuntft von Wahrheit]として、その本質においては、詩作[Dichtung]である。芸術作品と芸術家とは共に芸術に基づいているが、この芸術の本質は、真理がそれ自体を-作品の-内へと-据えること[das Sich-ins-Werk-Setzen]である。芸術の詩作的な本質に基づいて、芸術が存在するもののただ中で或る開けた場所を開け広げるということが生起する。

M.ハイデッガー『芸術作品の根源』(関口浩訳、平凡社ライブラリー、2008年、p.118)


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