虐げられた人に共感することが私たちがいきることに繋がってくる

ジャーナリストの山口敬之氏に暴行されたことを、実名で記者会見し表明した詩織さんをめぐり、BuzzfeedでAkiko Kobayashiさんが記事を書いていらっしゃいます。


レイプ被害者が実名で声をあげる理由を知っていますか。

https://www.buzzfeed.com/akikokobayashi/second-rape?utm_term=4ldqpia


Kobayashiさんの記事を読んで、日本は法治国家ではないと率直に思いました。

犯罪の被害者が自ら声を上げなければならない、捜査のリーダーシップをとるなら刑法の意味はありません。


すこし前に安倍晋三議員が、「保育園落ちた日本死ね」と書いた匿名の記事に対し、「匿名」であるがゆえにまともな対応をしませんでした。

私はこのとき、日本は国民主権ではなく、ましてや安倍晋三議員は国民の代表でないと感じました。

国会議員は国民の代表として顔を出すべく選挙で選ばれているから、顔を出し声を上げるのは彼らの仕事に私には思えるのです。


日本という国の憲法の上に書かれた法律は、きちんと運用されていれば、一人一人が名を名乗らなくてもいいはずなのです。

報道は名乗ることを求めるかもしれません。彼らはお金と視聴率で動いてるので民主主義はどうでもいいのです。


記事の中で詩織さんは言います。

「残念ながらレイプは、誰にでも起こりうることです。まずは司法で裁いてもらいたい。ただ、もし司法で裁けなくても被害者が責められるのではなく、『話しても大丈夫、助けを求めてもいいんだ、一緒に考えていくから』という社会に少しでもなれば、と思うのです」


司法で裁くこと、そうでなければ環境があること、という彼女は国によって守られていないことを自分の言葉で言っています。

中世の自力救済の世界なら詩織さんは犯人を自ら罰せられます。ただ詩織さんが加害者を罰すると法律が彼女を罰するのです。


詩織さんがおかれた状況は、アメリカ合衆国で警察に家族を殺されたマイノリティの遺族と似ています。


アメリカ合衆国で最大のマイノリティはメキシコ系の人々です。彼ら、彼女たちはアメリカがテキサスを併合したときから差別を受けつづけていました。

メキシコ系のアメリカ人を代表する女性詩人、ローナ・ディー・サーヴァンティスの詩には、法律で裁けない被害者に共感したとき、私たちがやるべきことが書かれています。


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人殺し
 ローナ・ディー・サーヴァンティス
 訳 山口勲

 

 

 

    奴らは手はじめに私たちを殺さずにいられないだろう
最優先で
奴らは私たちを捕まえ
私たちのぬれた口を
ひとつずつふさがずにいられないだろう
奴らの 星をにやにやさせた手に
あふれるほどの嘘で


    もしくは奴らは私たちを殺さずにいられない
制服で私たちを殺したように
若かった私たちを逮捕したり
私たちの髑髏でロシアンルーレットをしたやり口で
(私たちみんなそれを知ってるんだ)


でもこれは
そんなことを書いた詩ではない
この詩は
詩を書いていることを書いた詩
世のなかが
詩を書いていることを書いた詩
この世のなかでは州の
おえらいさんが制服をまとって
私たちの頭を撃つ
いい理由をつけて
すぐに否定する
言い訳も
力によって正当化する
これは言葉の上のことだとひらめく前に
まず私に話させてほしい


かつて
トレビーノ家のある通りに住んでいた
そこの息子/兄弟/叔父/孫だった
ダニー・トレビーノが撃たれた
後頭部をズドンと
サツが撃った理由は
ダニーがよっぱらっていたからだと
(自分の車の床に転がったどうでもいいよっぱらい)


    いま私がダニー・トレビーノの死を
詩に書くとしたら
言葉遊びはしない
いい詩を書くために習った
イメージを巧みに編みあげるだろう
詩に書くのはものすごく
はりつめた銃声が夜に響き
お母さんの家でそれを聞いた私には
列車の音と同じくらい鮮明だったこと
そして私は伝えるだろう
それらの列車は私にとって
雄々しい死の機械の
象徴としてぴったり意味づけられるのだと


    だがこれはそんな類の詩ではない
この詩が書くのは書いているという行為だ
たくさんの詩を
このイカれた州のなかを


    だから呼んでやる
「人殺し」と


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この詩ではダニー・トレビーノというメキシコ系の人が警察に殺されたということが題材のひとつになっています。


この殺人は1976年にサンノゼで実際に起きた出来事です。1000人以上の人々が射殺した警官の解雇と徹底した捜査を要求する声を上げました。

さらに1995年には婦女暴行事件の捜査中にダニーの従兄弟が警察に殺されています。

差別も背景とした権力の行きすぎは過去の話ではない国であり州での出来事です。


サーヴァンティスは、詩の中で、ダニーの死についての詩ではなく、「イカれた州」で生きていること、そしてそのために必要なことを書こうとします。


そして最後に根源的な、単純な「人殺し」という声にたどり着きます。これは生きている人が発する生の叫びです


昨年も、アメリカでは少なくない人が警察に殺されました。黒人たちはBlack lives matterと声を上げましたし、声を上げた他のマイノリティもいました。


私たちは、生きるために行う単純なことから逃れるべきではありません。


思い返すと、安倍晋三議員が「日本死ね」の声を聞かなかったことにしたときSNS上で「保育園落ちたの私だ」という声があがりました。


今回もきっとおなじように彼女の声を自分の声として上げるかたが多くいることを望みます。


「裁け」と
そしてこの声が中世に引き戻された私たちを民主主義にちかづけてくれるのだとおもいます。