表現の不自由展主催者たちへ

高村光太郎の智恵子の半生に「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となることはあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。」という一節がある。
よく考えて覚悟をして展覧会を開き、くだらない誹謗中傷や暴力に屈するくらいなら展覧会など開いたりせんでもいい。
君たちには君たちの思想や正義がありそれを大きな愛で表現して展覧会を開ければ成功するだろう。

追記2019年10月8日
あのような開き方が表現の自由を望む芸術の展示会であろうか。
実際の様子を直にみた人間をとても限定していて広く意見を交わすつもりもなさそうである。
テロばかり警戒していて覚悟もない。
表現はくどくどガイドするものでなく見た人の心でどう見てどう感じたかをそっと提供するものではないのか。
鑑賞する前に教育プログラムを施すという考え方があの人々の表現というものを不自由なものにしている印象を持つ。
失敗であろう。
表現というものは誤解する自由というものがあり、表現する人間たちがこう受け取って頂きたいと注文をつけるものが表現とは思えない。誤解する自由を表現した人間は引き受けないといけないのではないのか。実際に見て即刻止めろと抗議している河村たかしは少なくとも表現をちゃんと鑑賞したので抗議しているのではないのか。広く表現のことを真摯に扱わない展示会をいくら開いたところで表現は不自由なままである。

追記2019年10月9日
#あいちトリエンナーレ #表現の不自由展 で動画投稿禁止は展覧会で写真撮影禁止のものはたくさんある。SNS発信制限とか事前教育プログラムというのは表現を鑑賞する人間の自由を奪う検閲である。あの表現の不自由展というのは展覧会というより展示会であろう。
展示会は失敗であろう。