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からだの疲れ、スピリチュアルな疲れ

気温が40度近くもあるような猛暑日が続いていたけど、来週からは、めっきり涼しくなるという天気予報だ。秋の虫の声が夜の道端から聞こえるのも、すぐそこ。暑さのなかで、からだがじっと耐えている姿勢だったから、涼しくなった途端、どっと疲れが出ることがあるよね。みなさま、おからだ、くれぐれもご自愛ください。

疲れというのは、身体的な疲れと、精神的な疲れがあるよね。

身体的な疲れの場合には、運動して疲労物質が筋繊維に溜まると、痛くて耐えられなくなってくる。だから、しばらく休んで、疲労物質が分解されるのを待たないと、次の運動が出来ない。

精神的な疲れも、それと似ていて、頭を使うと脳に疲労物質が蓄積され、意識が散漫になってくる。なので、睡眠をとることにより疲労物質を洗い流し、傷ついた脳細胞を修復するんだ。

でも、それらに加えて、霊的な疲れ、というのも、あると思う。

霊的と言っても、お化けとバトルしてエネルギーを使い果たす、みたいなことではない。人間特有のスピリチュアルな疲れだ。

人間は「意味を問う」存在だから、生きるって? 人生に意味があるの? なぜ生きるの? 死んだらどうなるの? というような問題を、やっぱり考えてしまう。人生のシーズンには、そういう「意味を問う」ことをガーッと集中的にやる・やらされる時期が、あると思う。思春期とか、厄年と言われる42歳ごろとか(ユングは第二の思春期と呼んでいる!)は、そういうタイミングなんじゃないか。こういう「意味を問う」ことって、なかなか簡単に答えが出る問題ではないから、にもかかわらず、生死に直結する問題だから、問い続けているあいだは、ほんと、生きていて苦しいと思う。死ぬほど苦しくて、だから、ほんとうに死んでしまう人もいるぐらいだ。。。病気で死ぬこともあるし、自分で人生を終わらせてしまう人もいる。。。

そういう、意味を問う疲れ、スピリチュアルな疲れというのは、横になって眠っても、じっとして休んでも、簡単に取り去られるものではない。

今日の聖書の言葉。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイによる福音書 11:28 新共同訳

疲れをおぼえたら、イエスのもとへ逃れなさい、と聖書は言う。

イエス・キリストは、生きる意味を与えてくれる存在だ。イエスは、わたしたちに言う。「生きるんだ! わたしも一緒に生きるから!」

マンガ『聖☆おにいさん』の「イエス」のようなイエスが目の前に出てきて、「一緒に立川のアパートに住もうよ、ずっと一緒にいたいからさ」とか言われたら、これは、非常にわかりやすい世界だろうなあ、と思う。

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でも、いま、イエスは、目に見えないんだよね。。。

イエスは超越者であり、神だ *¹。

「超越者」であるというのは、いかなる状況にもかかわらず、イエスの思いと判断は、左右されないし、変わらない、ということ。だから、「生きるんだ!」という、わたしたちに対するイエスの熱い思いは、けっして変わらないんだ。

「神」であるというのは、神としてすべてを決定する能力を持っているので、イエスが心に決めたとおり、必ずそのようになる、ということ。だから、イエスが「生きるんだ!」と言うのであれば、わたしたちは必ず生きることができるんだ。

超越者であり神であるイエスは、いま、目にみえない姿で、わたしたちと一緒にいる *²。まあ、見えないほうがよいかな、とも思う。だって、見えちゃったら、絶対どぎまぎするでしょ? 外出するときも、寝るときも、お風呂に入るときも、トイレに行くときも、ずーっとついてくるんだよ?

註)
*1. Cf. コロサイ1:15ff, フィリピ2:6ff, ローマ9:5b
*2. Cf. ヨハネ20:29, ペトロ一1:8, マタイ28:20b, コロサイ1:27b, ガラテヤ2:20

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