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さんざん試練に遭ったあとにある、「しかし」と、その先。。。

なるべく苦しまず、楽な人生を送りたいものだ、と思う。

だけど、そんな願いとはおかまいなしに、やって来る、試練。。。

試練。。。試され、練られること。。。

「試される」。。。自分はいったい何者なのか、という本質的なところが、試される。。。つらいね。。。

「練られる」。。。自分の本質が試されると、たいがい残念な結果になるので、呆然自失し、粉みじんにされて、そこから、自分の再構成が始まる。。。しんどいね。。。

そんな繰り返し。。。

今日の聖書の言葉。

しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
ペトロの手紙一 5:10-11 新共同訳

さんざん試練を経たあとの、「しかし」が、ある、と今日の聖書は言う。

試練の真っ最中にあるときは、そんな「しかし」が、ある、とは、なかなか思えないんだけれど。。。

でも、試練を抜けて、急に視界が開けて、広々とした場所に自分が入った、みたいな感覚になることがある。「しかし」から先の世界の始まりだ。

「しかし」の先にあるものとは? 今日の聖書は、こう言っている。

● 神は、あらゆる恵みの源だ。その神が、あなたに「あらゆる恵み」を与えようと願っている。

● 神は、イエス・キリストを通して、あなたを「永遠の栄光」に招いている。

● 神は、神としての責任をもって、あなたを「完全な者」にしてくれる。

● 神は、あなたを「完全な者」とするために、あなたを強め、力づけ、揺らぐことのない者にすることができる。

● 神にはそれが可能だ。なぜなら、すべての「力」は、神のものだから。

粉々にされた自分を再構成するためのプロセスは、基本は、途方に暮れた状態からスタートする。神学用語では、これを「クライシス・モーメント」と言う。自分は何者であるか、という根本的な問題の、転機であり危機であるからねー。

ふつう、粉々にされてしまったら、もう努力の始めようが無いんだけど。。。

でも、努力が終わった地点から、「恵み」の世界が、始まるんだよね。

「恵み」。。。自分の努力で作り出したものではなく、神から一方的な恩恵として無償で与えられるもの。

途方に暮れた自分は、もちろん、その「恵み」を受け取ることを、必死に願う。

。。。願うわけなんだけど、神学的なロジックとしては、「神の願い」が、自分の願いに、永遠に先行しているんだ。

この宇宙が創造されるはるか前から、神は、自分がそのように「恵み」を受け取るようになることを、「神の願い」として、あらかじめ決めていた。その「神の願い」によって、いま自分は恵みを受け取りたいと願っている。

だから、自分の願いは、永遠の「神の願い」の、いま・ここ、における発現だ、というわけだ *。

そして、その発現した願いを、神は必ず実現することができる。なぜなら、この宇宙における、あらゆる力は、すべて神のもので、神が自由に使うことができるものだから。

神御自身が
しばらくの間苦しんだあなたがたを
完全な者とし、強め、力づけ
揺らぐことがないようにしてくださいます
力が世々限りなく
神にありますように、アーメン

こうして、神学のロジックは、人間のあらゆる絶望を、完全に封じてしまう。

その世界には、人生への絶望を容認するスペースが、素粒子一個分すら、存在しないのだ。

註)
*  Cf. エフェソ 1:4-7

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