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ネガティブな詩編を唱えてみよう

コロナ禍で、あらゆる経済活動や文化活動がストップして3か月ちかく。宗教活動も同様に停止され、教会も、モスクも、お寺も、人があつまって祈りをささげることが、むずかしい状況だ。

いくつかの国では、だんだん礼拝が再開されているところもあるけど、そのとき問題になるのが、讃美歌をどうするか、ということだ。

コロナ禍の前の世界では、クリスチャンたちは大声で讃美歌を歌っていたが、いま、それは、飛沫感染のリスクが高い行為とされている。こないだ自分も集会再開のための予行演習をしたのだけれど、ピアノの伴奏だけやって、讃美歌の歌詞を目で追いながら、沈黙しているとか。。。マスクの中で小声でつぶやくように歌ってみるとか。。。いろいろ試してみた。どうも、しっくりこない。

今日の聖書の言葉。

死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 
詩編 23:4 新共同訳

讃美歌の原型というのは、旧約聖書の中におさめられている「詩編」だ。これはもともと、古代ユダヤの時代、エルサレムの神殿で奉仕した合唱隊が、礼拝のとき歌った讃美歌を編纂したもの、とされている。なので、詩編の冒頭に「指揮者によって」とか「弦楽器で」とか「百合にあわせて」とか、演奏用の指示が書かれている。また、詩編の中に「セラ」という合図みたいな言葉が出てきて、これは、いまでいう楽譜の指示記号みたいなものだと考えられている。

詩編は全部で150編あるんだけれど、エルサレムの神殿では、これを毎日くりかえし歌っていた。ところが、その神殿は、西暦70年のユダヤ戦争のとき、ローマ帝国軍によるエルサレム包囲戦で徹底的に破壊され、あとかたもなくなってしまった。かろうじて神殿の西側の壁のみが残り、その壁の前だけはユダヤ人がお祈りをしても良い場所として指定されている。いわゆる「嘆きの壁」だ。でも、かつて神殿が立っていた境内は、イスラム教徒の管理下に置かれていて、いまなおユダヤ人が立ち入ることは固く禁じられている。

なので、神殿で詩編を歌う、ということは、もう2000年近くのあいだ、ずっと行われていないんだよね。。。いつの日か、エルサレムの神殿の境内において、ユダヤ人の主権が回復され、神殿が再建されたら、そこで毎日、詩編が歌われるようになるかもしれない。。。それが、いつのことになるのかは、誰も知らない。

でも、キリスト教会では、この詩編を、毎日の祈りの中で唱える習慣が、中世の頃から修道院を中心に形成されてきた。これを「時課」というんだけれど、早朝・朝・昼・夕方・就寝前に、ひとりで、あるいは、何人かであつまって、その日・その時間に指定された詩編を唱えたり、歌ったりする。毎日それをやると、ちょうど1か月ぐらいで詩編1編から150編までを全部唱えることができるようになっている。

この、詩編をクリスチャンの生活の中で「讃美歌」として用いる、という習慣は、プロテスタント教会にも受け継がれていて、カルヴァンがスイスのジュネーヴで宗教改革をやったときの仕事のひとつは、詩編全部にメロディーをつけて、礼拝でみんなで歌うことだった。これはジュネーヴ詩編歌と呼ばれている。スイスだけでなく、スコットランドでも盛んに詩編歌が作られた。太平洋戦争中の捕虜収容所を描いた映画『戦場のメリークリスマス』の中で、イギリス兵たちが何度も歌っていた「主はわが飼い主、われを守り、緑の牧場に伴いたもう」という讃美歌は、そういうスコットランド詩編歌の名曲のひとつだ。

「時課」を毎日唱えていると、ものすごいネガティブな感情を表現した詩編が、けっこうあることに驚かされる。

わたしたちの生涯は あなたの怒りで衰え
いのちの日々は ため息のように終わる。
七十年、八十年生きるとしても、
その年月は むなしく労苦に満ち、
すみやかに過ぎ去り、
わたしたちも消えうせる。
詩編90編
悩みが わたしに つきまとい
わたしは いつも嘆き悲しむ。
詩編39編
わたしは悲しみに押しつぶされ、
昼も夜も嘆いて暮らす。
わたしの腰は熱に冒され、
からだは傷に さいなまれている。
わたしは弱り、打ちひしがれて、
心は乱れ、もだえている・・・

親しい友は みじめなわたしを避け、
身内の者は遠くに離れて立つ。
いのちをねらう者が わなをかけ、
日夜 悪をたくらみ わたしの滅びを語る。
詩編38編
わたしたちは近所の人にそしられ、
まわりの人に笑われて、なぶり者となった。
諸国の民の もの笑いの種、
人々の間で あなどられる者とされた。
詩編44編
昼も夜も「神は どこにいるのか」と問われ、
そのあざけりは骨身にこたえる。
わたしの心は なぜ、うちしずみ、
嘆き苦しむのか。
詩編42編

どんだけネガティブやねん!

まあ、詩編は「讃美歌」なので、基本、ポジティブに神を賛美し、神に感謝する詩編が、ほとんどなのだが、その中に、こういうネガティブな詩編が、結構まじっている。

それは、そのまま、この世界の、そして、わたしたちの人生のリアリティーを反映している。神を信じているからといって、新型コロナウイルス感染症から100パーセント免れられるわけではない。クリスチャンが感染して死ぬことだって、ふつうにあるのだ。

でもまあ、自分は人生の喜びの日にあるのに、「時課」で指定された詩編が、悲しみの詩編、という、なんとも言えない、ちぐはく感をおぼえることがある。

その逆もあるよね。自分は失望落胆しているのに、指定された詩編は、喜びの詩編だ、みたいな。。。

そこについては、時課のローマ規範版の総則では、こう勧められている。

詩編を唱える者は個人としてよりも、むしろキリストのからだ全体の名によって、さらにはキリスト者自身として唱えるのである。このことをわきまえるならば、詩編を唱えるとき、たとえば悲しみに打ちひしがれているのに喜びの詩編に出会い、あるいは、しあわせなのに嘆きの詩編に出会うといったように、自分の心の動きが詩編の表現している情緒と一致しないことに気づいたときに感じられる困難さも消えてなくなる。(総則108節)

詩編を唱えるとき、ちぐはぐに感じるならば、そのときは、あなたは、人類の普遍的な経験としての苦しみ・あるいは・よろこびを、いまこの瞬間に共有しているのだ、という思いで、読みましょう。。。ということ。

逆に、詩編を唱えて、それが自分の気持ちにドンピシャなら、それは、大きな慰めだ。だって、自分の個人的な経験が、聖書の中に書いてある、つまり、神が大事なこととして、自分のことを取り上げてくれているんだから。

たとえ、死にそうな目にあうことがあったとしても、あるいは、もうほんとうに死ぬということが避けられないとわかった時であっても、わたしたちは神に祈ることができる。。。詩編の作者たちが、まさに、それをしたように。死の旅路にあってすら、神は、共にいてくださるのだ。

ちなみに、詩編23:4の「あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける」というのは、サドマゾ的なことを言っているのではない。

これは、古代ユダヤの羊飼いが、羊の群れを連れて移動するとき、常に鞭と杖を携行していて、 オオカミやライオンに群れが襲われそうになったら、鞭と杖でもって全力で戦い、羊たちの命を守ったことを指している。

つまり、鞭と杖の一撃を食らうのは、わたしたちではなく、敵である悪魔なのだ。誤解のないように。。。


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