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聖書を読んで、ぐさっと心に刺さる時。。。なんか、始まってる。。。

聖書って、神の言葉とされている。

けど、聖書の矛盾をいろいろ指摘する人もいるよね。

まあ、たった1個の矛盾があったら、それで神の言葉ではないって断定できるか、と言うと、どうかねー、と思うけど。

自分はクリスチャンだから、そういう意味ではバイアスがかかっている、と言われちゃうだろう。

その指摘はその通りとも思う。確かに自分は最初っから聖書は神の言葉という前提を受け容れてしまっているからねー。

じゃあ、聖書の矛盾について、自分、どう考えんのよ? ということになるんだけど。。。聞かれればこう答えることにしている。。。

それは、「編集されなかった説」だ。

どういうふうに考えるかと言うと。。。

まず、自分が昔のユダヤ教共同体の偉い人とか古代のキリスト教会の指導者とかになってみたさまを想像してみるんだ。

次に、そういう立場になった自分が、聖書の矛盾について検討してみることにする。。。当然ながら、あー、ここも、ここも、矛盾してるやん。ちゃちゃっと編集して整合性が取れるようにしたろ。それで、ええやん? とお気楽に考えて、聖書に手を付ける。

するとその途端、ユダヤ教共同体からもキリスト教会全体からも大激怒、猛反発を食らうことになる。

だって、みんなはそういう矛盾を含んだままの聖書を「神の言葉」として尊んでいるわけだから。その神聖なものに相談もなく勝手に手をつけるなんて、絶対ゆるさへんでー、ということになるのだ。

以上のような想像によるシミュレーションをしてみた結果、自分は次のように考える。

聖書は矛盾を含んだまま聖書としていまに伝えられている。矛盾を含んでいるってことは、各時代の信仰者たちが勝手な考えで編集や改変をちっとも行って来なかったということの「証拠」と言えるんじゃないか。

。。。ということ。

まあ、「編集されなかった説」を奉じるのは、自分ぐらいしかいないのかもしれないんだけど。。。

今日の聖書の言葉。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
テモテへの手紙二 3:16 新共同訳

聖書が与えられている目的。それは、われわれを「義」に導くため、と、今日の聖書の言葉は言っている。

「義」というのは、簡単に言うと、父なる神のこころの完全なよろこび・父なる神のこころの完全な満足、ということだと思う。

神のこころの満足が表れていると思うのが、マタイ3:17だ。

これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

これは、父なる神が独り子イエスに向かって発した言葉となっている。これを見ると、イエスは父のこころの完全な満足であることが、よくわかるよね。

この父なる神とイエスとの関係が「義」だと思うんだけど、なんと、われわれもこの関係のなかに入って来るようにと招かれているんだ。

こんなダメダメな自分が何をどうしたら「神のこころの完全な満足」になれるのか、と思ってしまうけれど。。。

でも、それを実現する手順として、父なる神はイエスの十字架と復活によって、人類の罪をゆるし、永遠の命を与えてくれた。

その結果、父なる神は、われわれを、いま・すでに・現状で「神のこころの完全な満足」になってるよ! と宣言しているんだ。

神は、この大前提を世界の根底に据えた上で、次の手順を進めようとする。

それは、われわれひとりひとりが単に立場だけでなく、実質においても、つまり、生き方やふるまいや考え方や感じ方においても「神のこころの完全な満足」になれるよう、われわれを変えて行ってくれる、ということだ。

それが、今日の聖書の言葉が言ってる「義の訓練」なんだと思う。

えーっ。。。そんなこと。。。どうやったら、そんなふうになれるの? と思うけど、そのために与えられているツールが聖書だ、ということになる。

何気なく聖書を読んでいて、もし、ぐさっと心に刺さる瞬間があるとしたら、それはきっと、「義の訓練」が始まってるんじゃないかな。。。

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