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行い vs 信仰という二項対立を抜け、信仰をバージョンアップする。

あぁ、今日も自分はイエスさまを悲しませることをやってしまった。。。

そう思う時は、とっても惨めで、悲しくて、寂しい。

今日の聖書の言葉。

わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
ヨハネによる福音書 15:2 新共同訳

自分は、イエスにつながっている者なのに、こんなことしか、できないなんて。。。

自分の信仰って、なんて小さくて、薄いんだろう。。。

イエスさま。。。ゴメンナサイ。。。

そんな気持ちでいるとき、小西芳之助(1898-1980)の本を手にとって読むと、カツーンと頭を殴られたような感覚になる。

たとえば、こんな言葉を読んだとき。

内村鑑三先生は、大正10年5月15日、この箇所(ローマ3:21)について御講義になり、「律法、道徳とは無関係に」と言われました。その時、私は強烈な感動を覚えました。我々の心の状態、我々の行いの状態にはよらない、ということが分かりました。その時初めて、私は福音の意味が分かったのであります。それ以来、すでに50年が経ちましたが、この確信は少しも動くことなく、私の福音理解の根底になっております。

救いは、我々の心の状態、我々の行いの状態には一切よりません。律法、道徳、宗教、そのようなものとは一切無関係にであります。次元が違う!

山口周三『恵心流キリスト教の牧師 小西芳之助の生涯』pp.111-112

あー、これを読むと、なんか、心が解放されて、軽くなるかも。。。

小西芳之助はこうも説いている。

「贖い」とは、イエスが十字架にかかって、我々の身代わりになって、すべての罪を処分して下さり、我々に永遠の生命を与えて下さったことを言います。この永遠の生命というものは、イエス・キリストの贖いにより、常に義とせられつつ、賜物として、神の恵みとして与えられるものであって、人間の側では何もする必要はありません。全部が恵みであります。イエス・キリストの贖いによって、神の恩恵として、賜物として、この永遠不滅の生命を受けることを信仰と言う。この真理を真受けにして、「そうか」と受けとることを、信仰によって救われると言う。

君たちは「自分は信仰が浅い、薄い」などと言って、この信仰という字で引っかかっている。しかし、それは大間違いです。人間側の信仰を必要としない! 人間の善行を必要としないのと同様に、人間の信仰も必要としません。

同上 p.116

救われるために、行いが必要ないばかりか、信仰も必要ない、って。。。

ここばっかりは、えーっ、ほんとーですかっ?って、なってしまう。。。

じゃあ、いったい、われわれは、だれの信仰によって、救われるのか?

小西芳之助は、それは「イエス・キリストの信仰による」と言うのだ。

ロマ書の3章22節に「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって」とあり、「イエス・キリストを信じる神の義」と、イエス・キリストを目的格に訳してある。原語では、英語の by とか through に当たる前置詞とそれに続いて「イエス・キリストの信仰」と書いてあるだけである。「の (of)」という辞は主格の意味を表す場合にも使われるし、目的格を表す場合にも使われる。小西は、ここは「イエス・キリストが所有し給う信仰による神の義」と主格の意味に訳したい、と主張した。

さらに「信仰」という辞は、「忠実」という意味もある。原語は「信仰」とも訳せるし、「忠実」とも訳せる。そしてそれはイエス・キリストが一生涯神に忠実であられ、十字架を負うて復活されたのだから、「イエス・キリストがなしとげられた十字架の贖罪に至る忠実」と解することができる(略)

この箇所の「イエス・キリストの信仰」を主格に読むか、目的格に読むかということは、古来、問題になっている。小西は、1961年の9月にこの箇所を研究していた時に、スイスのカール・バルト、英国のC.H.ドッド、米国のジョン・ノックス、という世界の三人の大神学者に手紙を出した。「私はどうしても我々の先祖(仏教浄土門の恵心や法然、親鸞)の信仰に照らして読むと、ここは主格に読まないといけないように思うが、どうお考えか」ということを尋ねた。直ちに三人の先生から返事が来た。

同上 pp.64-65

で、返事というのは。。。

C.H.ドッド(1884-1973)ケンブリッジ大学新約聖書学教授
「君の考えは尊敬すべき権威をもつ。しかし、私はこの箇所はやはり、目的格として読む」

カール・バルト(1886-1968)二十世紀を代表するスイスの神学者
「私は賛成できかねるが、贖いと解釈される解釈は、これは発見であり、しかも驚くべき卓見である」

ジョン・ノックス(1900-1990)ユニオン神学校新約聖書学教授
「君の議論の価値を認める、私が間違っていたと、それは私が他の箇所でのパウロの用法に従って解釈していたためであって、たぶん他の多くの箇所でもわたしは間違いを起こしていることであろう」

ノックス先生。。。なんて謙遜なの。。。

1954年の口語訳聖書では、こうなってた。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。
ローマ人への手紙 3:22 口語訳

それはつまり

わたしたちがイエス「を」信じる、その信仰によって救われる

という、これが、目的格による解釈であるわけなんだけど。

で、それについて、クリスチャンたちは2000年間、ほとんどだれも疑問を持たなかったわけなんだけど。。。

ところが、小西芳之助は、そうじゃなく

イエス「が」信じる、その信仰によって、わたしたちは救われる

という主格による解釈を採用すべきだ、と1960年代に言ったのだ。

それから60年近くの年月が経ち。。。

2018年に刊行された新しい聖書の翻訳である「聖書協会共同訳」を見ると、この問題の箇所が、なんと、こう訳されているんだ。

神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです。
ローマの信徒への手紙 3:22 聖書協会共同訳

つまりね、主格の解釈になっているんだ。

たとい、わたしたちは不真実であっても
彼(キリスト)は常に真実である
彼は自分を偽ることが、できないのである
*

思わず胸熱になる。。。小西先生(涙)

なので、冒頭に戻るんだけど、自分はこう考えなおすことにする。

あぁ、今日も自分はイエスさまを悲しませることをやってしまった。でも、行いや信仰と関係なく、イエスは自分を救ってくれる。それは、イエスが十字架の死に至るまで父なる神の御心に従い通したからだ。そのイエスの信仰(真実)が一方的に自分を救ってくれる。そして、イエスの命が、聖霊をとおして、自分の中に流れ込んで来る。だから、それに自分を委ねて、聖霊の実を結ばせていただこう。それは、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制だ。その豊かな実を食べて、味わって、喜んで、生きよう!

註)
*  Cf. テモテへの第二の手紙 2:13 口語訳

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