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おでこの角を気にする日々

愛し合うことに失敗する経験をするたび、思い出す演劇がある。ウジェーヌ・イヨネスコの不条理劇『犀』(さい) だ。

まあ、不条理劇なので、なんでそういう展開になるのか、という説明は一切ないんだけど、人間がみんな犀になってしまう、というおはなし。わからないところが、不条理だよね。

ある日のこと、世界中の人々の額から、にょきにょきと角が生えてきて、理性を失い、皮膚は鎧のように固くなり、四つん這いになって、犀に変身してしまう。。。アフリカのサバンナを疾走する、あの犀に、なってしまうのだ。言葉を解さなくなった人々は、犀の群れとなって、街を疾走し、文明世界は滅んで行く。

でも、その中で、ひと組のカップルだけは、お互いの心が愛によって通じ合える、という希望に生きようとするんだ。彼らが、愛し合っているかぎりにおいては、なぜだか、額から角が生えてこない。人間でいられるのだ。

ところが、ひょんなことから、ふたりの心が行き違ってしまう。そして、愛することに絶望する。。。絶望したとたん、額から角が生え始め、彼らは理性を失い、犀になってしまうんだ。

いま、世界のニュースを見ていると、理性的に対話することが、どんどん難しくなっているように、感じる。言葉によって相手の心に届く通路を見つけられる、ということを、信じにくくなっているので、はなから相手とわかりあえないことを前提に、みんな行動している。そんな感じだ。

だから、ときどき、自分でも、おでこをさすってみるんだ。。。もしかしたら、角が生え始めているんじゃないか、って。

今日の聖書の言葉。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13:34 新共同訳

イエスは、究極の愛に生きたひとだ。もとい。神-人だ。

というのは、裏切られ、見捨てられ、痛めつけられ、殺される、という、愛とは正反対の仕打ちを全身全霊で受け止めたイエスは、それをそっくりそのまま十字架で、神の愛の体現に、転換してしまったんだから。

十字架は、処刑のためのもの。憎悪の道具だ。それが、無限の神の愛のシンボルになる。これまた、西田幾多郎的な、絶対矛盾的自己同一だよね。

イエスの十字架を信じる、ということは、この世界で、愛はかならず憎悪に勝つ、と信じて生きることだ、と思う。

シンボルというギリシャ語由来の言葉は、もともと、割符という意味なのだそうだ。ひとつのものを、二つに割って、お互いが欠片を保有し合う。そして、ふたたび出会ったとき、欠片と欠片を合わせると、ぴったりひとつになる。こうして、お互いが「友」であると、認識するんだ。

十字架というシンボルを身に着けて、生きる。それは、どんな憎悪も、愛に変えられる、と信じること。。。その思いを欠片とすることで、相手と自分は、組み合わされ、ひとつの心になれるはず。。。

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でもねー。。。あの野郎、ぜってーに、ゆるせねえ、という、この荒々しい暴れる犀のような、心のうちなる情動。御しがたい。なので、おでこを一生懸命押して、角が出ないようにしないと、憎悪に飲み込まれてしまいそうになる。

だから、イエス・キリストの十字架を、なんどでも、見上げよう。そして、十字架上のイエスの言葉を、自分の言葉として祈っていこう。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。
ルカによる福音書 23:34  新共同訳 

もちろん、これも付け加える。。。父よ、わたしをお赦しください。わたしも、自分が何をしているのか、わからずにいるのです。。。


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