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神の栄光シェキナ一・イエスは私たちと共に

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書 18:20 新共同訳
御子は神の栄光の輝きです。
ヘブル人への手紙1:3 口語訳

イエス・キリストは自分自身のことを、どう思っていたのでしょう? 人間だと思っていた? 神の子だと思っていた? 預言者だと思っていた? ラビ(ユダヤ教の教師)だと思っていた? それとも、神だと思っていた?

イエス・キリストは、どういう内面の意識を持っていたんでしょう? もちろん、外見からは計り知れません。

なので、イエス・キリストが発した言葉、行ったわざ、そして、それらの背景にある第二神殿時代のユダヤ教の信仰に照らすことによって、イエスがどういう内面の意識を持っていたのか、想像をたくましくしてみたいと思います。

これを、「メシアの自己意識」の問題と呼んだらいいでしょうか。

それでは、イエスの発言を調べて行ってみましょう。想像力を忘れずに。

注目したいのが、マタイによる福音書18:18-20です。特に20節ですね。

そこで言われているのは、2人または3人がイエスの名前によって集まるところには、イエスもまた一緒におられる、ということです。

こういう発想を、イエスは、いったいどこから得られたのでしょうか?

イエスはユダヤ人ですから、小さな子どもの時から聖書を学んできました。この場合の聖書というのは、旧約聖書ですね。ユダヤ人の男の子は、モーセの律法の書を小さいときから暗誦させられます。そして、12歳になったら、みんなの前で律法(トーラー)を少しも間違えずに立派に朗読できるか、テストされます。そのテストに合格すると、一人前の大人として認められます。つまり、成人式のテストが聖書朗読なんですね。

ユダヤには、律法の教師である律法学者がいて、人々に聖書を教えていました。おそらくイエスも、いろいろな律法の教師たちから聖書を学んでいたことでしょう。イエスがどれほど聖書をよく知っていたか、というエピソードがルカによる福音書の中に出てきます。ルカ3:41-52を読んでみましょう。特に46節と47節が重要ですね。

イエスは、律法学者がびっくりするほど聖書をよく知っていました!

そうした律法学者たちによる聖書の解説をまとめた本を、ユダヤ人は作りました。それはタルムードと呼ばれています。それを見ると、イエスと同時代の律法学者たちが、どんな聖書解釈をしていたかがよくわかります。その中でも特に重要なのが、タルムードのピルケ・アヴォート第3章に出て来る、ハナニヤ村のラビ・ハラフタという人が説いた言葉です。

ハナニヤ村のラビ・ハラフタは「2人または3人が共に律法を学ぶところには、神の栄光(シェキナー)が共にいる」と説いた。

これって、なんだか、2人または3人がイエスの名前によって集まるところには、イエスも共にいる、というイエス自身の発言と、似ていますよね?

この、似ている、というだけの点から、探求と想像をふくらませてみましょう。

さて、イエスは、このラビ・ハラフタの教えを知っていたんでしょうか? 

興味深いことに、ラビ・ハラフタが住んでいたハナニヤ村について、タルムードのバヴァ・メツィアという章にはこう言われています。

「ハナニヤ村(カファル・ハナニヤ)はカナ村(カファル・カナ)である」 

つまり、ハナニヤ村というのは、カナの村なんですね。ガリラヤ湖の南端から西に17キロの位置にあるカナは、イエスが最初の奇跡を行われた場所でもあります。ヨハネによる福音書2:1-11を読んでみましょう。特に重要なのが2:11ですね。イエスが「その栄光を現された」と書いてあります。栄光というのは、神の栄光(シェキナー)のことですね。

はい、出てきました。シェキナー。ここから、思いっきり想像をふくらませて行きます。

シェキナーとは、なんぞや? シェキナーは光であり、輝きであり、神の栄光です。シェキナーというのはヘブライ語です。

ヘブライ語ですので、ユダヤ教百科事典(エンサイクロペディア・ジュダイカ)にあたってみましょう。そこで、「シェキナー」(שכינה‎) の項目を見ますと、旧約聖書と新約聖書で「輝き」に言及している箇所、特にギリシャ語の「ドクサ」(δοξα) という言葉が用いられている箇所は、すべてシェキナーを指しており、シェキナーに相当するギリシャ語は、ドクサの他には無い。このように説明されています。ヘブライ語の旧約聖書ではシェキナー。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書セプチュアギンタではドクサ。ギリシャ語で書かれた新約聖書ではドクサ。ドクサはいずれもシェキナーを意味している。ユダヤ教百科事典はそのように説明しています。

そうすると、ヨハネ2:11 “Εφανερωσεν την δοξαν αυτου” (エファネローセン・テ一ン・ドクサン・アウトゥ)は、どう言い換えることができるでしょうか? 「イエスはカナで神のシェキナーをあらわされた」と言い換えることができることになります。

さて、このシェキナーを、もっと掘り下げて考えてみましょう。

シェキナーは輝くという意味ですが、もともとは「留まる」「宿る」という意味なんですね。それは、神の臨在が光り輝く栄光という人間の目に見えるかたちになって現れる様子、そして、神の栄光が人間の間に留まる、人間の間に宿る様子を表している言葉です。

つまり、神様が目に見える形で現れた、光り輝く栄光となって現れた、それがシェキナーだ、ということになります。シェキナーとは、神様を間接的に表す言葉なんですね。これは、G.H.ボックスという聖書学者による説明です。G.H.ボックスは、N.T.ライトの師匠であったG.B.ケアードのそのまた師匠であった人です。

「シェキナーの栄光は新約ではギリシャ語『ドクサ』で示される」G.H.ボックス

神様が目に見える形で地上に現れた。神の栄光が人間の間に留まった。そういう箇所が、旧約聖書には、いくつも記録されています。代表的なところを見てみましょう。

出エジプト記33:18-23 ここでは、神の栄光がモーセの目の前を通ります。

民数記9:15-23 ここでは、幕屋に神の栄光が臨みます。

列王記上8:10-11 ここでは、エルサレムの神殿に神の栄光が満ちます。

イザヤ6:1-4 ここでは、イザヤが神の栄光を目撃します。

アラム語訳旧約聖書タルグムでは、レビ記22:12はこのように訳されています。

「わたしは、わたしの栄光シェキナーをあなたがたの中に置き、わたしの言葉はあなたがたの罪を贖う神となり、そして、あなたがたはわたしの名にとって聖なる民となる」 

これが、イエスのおられた時代のユダヤ教(後期ユダヤ教、あるいは、第二神殿時代のユダヤ教)におけるシェキナーについての理解でした。

このように、神の栄光シェキナーは、イスラエルの人々、ユダヤの人々と共にあったことがわかります。しかし、みなさんもご存知のように、イスラエル・ユダヤの人々は、まことの神様を捨てて偶像を拝むようになってしまいました。そのようにして堕落して行った様子が、旧約聖書の列王記や歴代志に描かれています。そして、堕落の結果、ついに神様の裁きを受けて、エルサレムの神殿はあとかたもなく破壊されてしまい、ユダヤの人々はバビロンに捕囚されてしまったのです。

神の裁きによってエルサレムの神殿が破壊される直前に、神の栄光(シェキナー)がエルサレムから去った、ということが聖書に書かれています。エゼキエル10章にそれが書かれています。10:1-4そして10:18-19を見てみましょう。

ユダヤ人は、70年間のバビロン捕囚が終わると、再びエルサレムに帰って来ました。その様子が旧約聖書のネヘミヤ記やエズラ記に記されています。そして、破壊された神殿を再び建て直したのです。その様子は旧約聖書のゼカリヤ書に書かれています。こうしてバビロン捕囚後に建て直された神殿を第二神殿と言います。

ところが、ラビたち、律法学者たちの一部は、第二神殿には神の栄光シェキナーが宿っていない、と考えていました。エゼキエル書10章のところで神の栄光シェキナーがエルサレムの神殿を去って以来、それは戻って来ていない、とラビたちは考えていたのです。しかし、ラビたちは、いつか救い主メシアがエルサレムにやって来る。そのとき、神の栄光シェキナーも再び神殿に戻って来る、そう信じて、メシアを待ち望んでいました。

ユダヤ人は神の栄光シェキナーについて、こういうふうに理解していたんですね。そして、イエスもユダヤ人ですから、当然、こうした共通の理解を小さい頃から教えられて、よく知っておられたと思います。

そのイエスは、自分自身のことを何と言ったんでしょう? ここでもう一度、最初に紹介したマタイ18:18-20に戻ってみましょう。2人または3人がイエスの名によって集まるところにはイエスが共にいる。もしイエスが、あのラビ・ハラフタの「2人または3人が律法を学ぶところには神の栄光シェキナーが共にいる」という教えを知った上で、この発言をしたとするならば、イエスは自分ことをシェキナーと同一視していた、ということになるんではないでしょうか?

どうでしょう? そんなことがあるでしょうか? ちょっと注意して見てみましょう。ラビ・ハラフタは「律法を学ぶところにはシェキナーが共にいる」と言いました。ラビ・ハラフタは律法を重視していますね。一方、イエスは「イエスの名によって集まるところにはイエスが共にいる」と言っています。イエスは、律法とイエスの名を同等に置いて考えているんでしょうか? いったいイエスは、律法について、どう考えていたんでしょう?

イエスは、律法について、こういう発言をしています。

「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」マタイ5:17-18

これに対し、ご自分についてはマタイ24:35でこう言っています。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」 

この2つを比較してみると、とても重要な点がわかりますね。

どういうことになりますか? 律法は天地が滅びるときに、天地と共に消え去ります。ところが、イエスの言葉は、たとえ天地が滅びても、決して消え去らない、というのです。

つまり、単純に考えれば、イエスの言葉は、律法に優越している、ということになりますよね?

この点においてイエスは、ラビたち、律法学者たちの教えを完全に超えて行ってしまうのです。ラビたちにとっては、律法はどこまでも絶対的なものです。律法が消え去るなんてことは、ラビたちにはとても考えられません。ところが、イエスは、律法は天地と共に消え去る、しかし、イエスの言葉は決して消え去らない、イエスの言葉は律法に優越するんだ、ということをやすやすと主張するのです。この点で、イエスはユダヤ教のラビたち、律法学者たちとは完全に一線を画すことになるのです。

つまり、イエスの「メシアの自己理解」は、第二神殿時代のラビたちのユダヤ教にもとづいたものでありながら、ラビたちのユダヤ教を超えているのです。これが、イエスが十字架につけられることになった理由でもあります。

ところで、律法よりも優越しているもの。そんなものがあるんでしょうか? たとえ天地が消え去っても決して消え去らないもの。そんなものがあるんでしょうか? そんなものがあるとしたら、それは、神様ご自身か、その神様から輝き出る栄光シェキナーだけですよね? なぜなら、神の栄光は、神と共に永遠から永遠に輝き続けるものだからです。

もしイエスが、ほんとうに自分のことを神の栄光シェキナーと同一視していたんだとしたら、福音書に出て来るイエスのいろいろな発言は、確かにぜんぶ筋が通っていることがわかります。そこで、イエスがほんとうに自分をシェキナーだとみなしていた、そう考えながら、ヨハネ17:1のイエスの祈りを読んでみてください。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」

イエスはまた、ヨハネ8:12でこう言っていますね。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

ヨハネによる福音書を書いたヨハネは、その冒頭で、イエスがまさに光であった、と宣言しています。ヨハネ1:1-14を読んでみましょう。特に重要なのが、14節ですね。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。(ここでドクサというギリシャ語が使われています。それは、シェキナーを意味しています) それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」

イエスが神の栄光シェキナーであるなら、イエスの本当の姿、本来の姿は、まばゆいばかりに光り輝く姿であるはずです。イエスは、そういう姿を一度だけ弟子たちにお見せになった、ということが聖書に記録されています。マタイ17:1-8を読んでみましょう。イエスの顔が太陽のように輝きました。そして、光り輝く雲が覆いました。旧約聖書で、神の栄光が地上に現れるときには、必ず雲がわきでて、栄光を覆っていたことを思い出してください。イエスの本当の姿、それは、神の栄光シェキナーである、ということが、弟子たちにはっきりと示された瞬間ですね。

そのイエスは、ロバの子の背に乗ってエルサレムに入場されました。さっきも言いましたが、ラビたちは、神の栄光シェキナーが去った結果として、エルサレムの神殿は破壊されてしまった。そしてバビロン捕囚の悲劇が起きた。バビロン捕囚から人々が戻ってきて、エルサレムに第二神殿が再建されたけれども、しかし、神の栄光シェキナーは神殿には戻って来なかった。だから、第二神殿にはシェキナーは宿っていない。しかし、世の終わりにメシアがエルサレムにやって来る。その時、シェキナーが再び神殿に宿るようになる。ラビたちは、そう期待していました。果たして、イエスがエルサレムに入城したことによって、シェキナーは神殿に戻って来たんでしょうか?

ここで重要になるのが、神殿についてのイエスの発言です。 ヨハネ2:19-22を読んでみましょう。重要なのは21節です。

「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」 

つまり、イエスがシェキナーであるとするなら、イエスの体、イエスの肉体は、シェキナーを宿す神殿だ、ということなのです。

イエスが神の栄光シェキナーそのものであり、シェキナーを宿す神殿がイエスの体であるとするならば、どうなりますか? イエスが言った次の言葉。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ヨハネ2:19

この神殿を三日で建て直す、という言葉の意味は、イエスが十字架にかかって三日目に復活することによって、新しい神殿が出現するんだ、という意味になりますよね?

イエスは三日目に復活して、新しい神殿になってくださった、ということになります。そして、わたしたちは新しい神殿である復活のイエスを通して、神の栄光の輝きにあずかることができる、ということになります。実際、新約聖書は、こうわたしたちに勧めていますね。

「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」ヨハネ12:36 

わたしたちがイエスを信じる時に、わたしたちは光にあずかる、神の栄光シェキナーにあずかることができる、というのです。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」エフェソ5:8 

わたしたちがイエスを信じる時に、わたしたちはイエスとひとつに結ばれて、イエスが光であるように、わたしたちも光となることができる、というのです。

では、わたしたちが光になる、とは、どいうこうことなんでしょうか? 最後に指摘したい点は、たいへん興味深いことですが、ユダヤ教では、神の霊である聖霊もまた、シェキナー、神の栄光である、と考えられたのです。

わたしたちは、イエスが、イエスを信じる者たちに聖霊を与えてくださることを知っていますよね。イエスは言われました。

「聖霊を受けなさい」ヨハネ20:22

わたしたちがイエスを救い主と信じる時に、聖霊が来て、わたしたちの心の中に宿ってくださいます。すると、わたしたちは、どういうことになるのでしょう? パウロはこう言っています。

「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」コリント一6:19

驚くべきことですが、このわたしたちが、聖霊を宿す神殿になるんだ、ということです。神の栄光シェキナーであるイエスを信じるときに、神の栄光シェキナーである聖霊がわたしたちの中に来て、わたしたちの中に宿ってくださって、わたしたちの体もまた神殿になるんだ、ということです。

今日わたしたちが調べて来たことの結論が、こうして明らかとなりました。

神の栄光シェキナーであるイエスがエルサレムに戻って来られた。そして十字架にかかり三日目に復活したことによって、新しい神殿が出現した。復活のイエス・キリストの体という新しい神殿です。そして、ペンテコステの日にイエスを信じるすべての人に聖霊が注がれました。神の栄光シェキナーである聖霊が、イエスに結ばれたすべての人間に注がれたのです。こうして、わたしたち人類は、その中に聖霊を宿す神殿となりました。いまや、人類が「神殿」となったのです。

歴史的には、西暦70年にエルサレムの第二神殿は破壊されました。それから2000年が経過した現在でもエルサレムには神殿は再建されていません。この世界には、もう神殿は、存在しないのでしょうか?

そうではないのです。復活して永遠に生きておられるイエス・キリスト。キリストご自身が新しい神殿なのです。また、そのキリストに結ばれて聖霊を受けた人類が「生きた神殿」となっているのです。

それで、結論として、この聖書の言葉を最後にご一緒に読みたいと思います。

「ここでいう主とは“霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」コリント二3:17-18

アーメン! これが、わたしたちが行った探求の結論です!

祈り

神から出た神、光から出た光
神の本質の真の姿であり
神の栄光の輝きであるイエス様、
あなたを救い主と信じます。
あなたを心の中にお迎えします。
あなたが十字架にかかり
わたしの罪をつぐなってくださったこと
三日目によみがえってくださったことを
信じます。
イエス様、あなたは「新しい神殿」として
いま生きておられます。
あなたを信じるわたしを
あなたとひとつに結び合わせ
あなたが光であるように
わたしをも光の子としてください。
イエスの御霊であり、
神の栄光の輝きである聖霊様、
どうかわたしの中に宿り
わたしを助けてくださり
光の中で、光であるあなたと共に
光に向かって生きることができるように
みちびいてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

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