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最後の逃げ場所

追い詰められた時、最後に逃げ込める場所を、持っていたら、生き残れるよね。物理的な意味でも、精神的な意味でも。

自分の場合は、教会にある「恵の座」という、祈りのベンチが、それ。

ベンチ、といっても、座るためのものではない。ひざまづいて、神に祈るための場所だ。

罪を犯してしまったとき。泣きたくてどうしようもないとき。だれかを思って祈るとき。。。恵の座にいって、祈る。

恵の座(めぐみのざ、英語:mercy seat)は、ウェスレー派やホーリネス派のキリスト教会において、説教壇の前に設置された、ひざまずいて祈るための木製ベンチ。。。詳細はウィキペディアで。

ひざまづいて祈る、という共通要素を核に、デザインにはいろんなバリエーションがある。いくつか紹介しよう。

これは、20世紀初頭のタイプ。この手のものは、もう、あまり残っていないかも。「汝の痛める心を此処に持ち来たれ」(HERE BRING THY WOUNDED HEART)って金文字で書いてある。尊い。。。

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これは、20世紀中葉のタイプ。両脇にティッシュケースが置いてあるのは、ボロボロ泣きながら祈る人のための心づかい。やさしい。。。

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こちらは、21世紀のもの。シンプル・イズ・ビューティフル。

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「恵の座」という呼称は、旧約聖書に出て来る、モーセの幕屋に安置された "恵みの座" * に、由来してる。訳によっては、"贖いの座" とか "贖罪所" あるいは "宥めの蓋" としている聖書も。

オリジナルの ”恵みの座" は、材質もデザインも、ぜんぜんちがう。純金の板でできていて、その上に、打ち出しづくりの二体のケルビムが乗っている。ケルビムというのは、神の前で仕えている天使で、裁きと呪いと死の天使でもある。

復元図は、こんな感じ。これは、映画『インディ・ジョーンズ 失われたアーク《聖櫃》』に出てきたやつのレプリカだ。アークは "契約の箱" とも "神の箱" とも "あかしの箱" ともいう。

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 "恵みの座" は、蓋に相当する部分で、下の箱(アークの本体)には、モーセの十戒の石板が、収められている。

二体のケルビムは、顔をじーっと、下に向けている。何を彼らは見ているかというと、十戒の二枚の板を、見ているのだ。十戒は、モーセが神から直接に示された、人の生きる道の基準だ。

で、"恵みの座" に近づこうとする人間がいると、裁きと呪いと死の天使であるケルビムは、十戒を参照して、ちょっとでも違反を発見したら、たちまち聖なる一撃を加え、その人間を滅ぼしてしまう。旧約聖書には、ウザという男が、不用意に "恵みの座" に手を触れたがため、撃たれて死んでしまう記事 ** が載っている。コワイ。。。

これが意味するところは、人間は、罪ふかいから、そのままでは、神に近づくことはできないよ、ということだ。

しかし、一年に一度、大祭司が、 "恵みの座" に、犠牲の動物の血をそそぐことによって、罪の贖い(あがない)をするんだ。

あがない、とは、ある人や動物が身代わりに死ぬことにより、他者の罪責を完全に免除するという、宗教的行為だ。"恵みの座" が "贖いの座" とも呼ばれるゆえんだ。

どういうことかというと、ケルビムは、顔を下に向け続けていて、彼らの目には、いまや、犠牲の血だけしか、入ってこない。十戒がおおわれて、見えないために、ケルビムは "恵みの座" に近づく人間を、罪に定めることができない。罪に定めることができないから、裁きと呪いと死を、執行することができないんだ。

これは、人間は罪ふかい、にもかかわらず、あがないによって、ゆるされ、神に近づくことができることを、示している。

そして、これは、究極的には、キリストの十字架を指し示しているんだ。

今日の聖書の言葉。

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙 4:16 新共同訳

罪の重荷にうめいている自分が、それでも、神に近づくことができる。それは、イエス・キリストが十字架にかかり、罪をあがない、ゆるしを与え、裁きと呪いと死を、終わらせてくださったから。

つまり、イエス・キリストそのものが "恵みの座" ということになる。

『教会の祈り』(時課)のきょうの「読書」で、聖ボナベントゥラがこう言ってた。

キリストは道であり、門である。キリストは、神の契約の箱の上に据えられた「贖いの座」と、代々にわたって隠されていた秘儀として、階段であり、乗り物である。
聖ボナベントゥラ司教の『神への精神の旅路』より

かなしいとき、良心が痛むとき、恐れているとき。。。「恵の座」に行って、祈ろう。キリストの十字架が、罪をゆるし、なんどでも、立ち上がらせてくれるから。

ところで、このコロナ禍の最中に、物理的に教会の「恵の座」にアクセスできない場合には、どうしたらいいんだろう?

ご心配なく。。。

サムエル・ローガン・ブレングルは、こう言った。
「わたしは自分の心のなかに、いつも『恵の座』を持っています!」

そうなんだよね。。。イエス・キリストは、いつでも、どこでも、わたしたちと一緒にいてくれる***。信じる者の心のなかに、住んでくださるイエスだから。わたしたちは、ポータブルの「恵の座」を、いつも心のなかに、持ち運んでいることになるんだ。

だから、ぐずぐず悩んでいないで、いますぐ「恵の座」に行こう!

註)
* Cf. 出エジプト記 25:10-22
** Cf. 歴代誌上13:5-14
*** Cf. ヨハネ 14:20

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