見出し画像

メンヘラくんと、ゾンビちゃん

キリスト新聞社主催「聖書ラノベ新人賞」に応募する夢を見た。

夢のなかの作品タイトルは『メンヘラくんと、ゾンビちゃん』。。。

コンセプトは、国家権力の擬人化キャラ「メンヘラくん」と教会の擬人化キャラ「ゾンビちゃん」との熾烈な戦いを描く、時空を超えた、血みどろ恋愛学園コメディ。

「メンヘラくん」は、外見は親切で気さくな紳士だけど、恋愛対象に対しては、内面までも完全にコントロールしないと気が済まない。支配できないとわかるや、暴力を使ってでも服従させようとして来る、典型的DV男だ。

「ゾンビちゃん」 は、不思議キャラ。適当に生きているように見えるけど、正体不明の「謎の彼氏」のことになると、突然スイッチが入り、どんな暴力も通用しなくなる。。。どころか、死んでも死んでも、生き返ってくる。

シリーズ化されて、第3巻はカノッサの屈辱篇、第4巻はブリタニア篇で、バイキングのリンデスファーン襲撃事件で死んだはずの「ゾンビちゃん」が、ダラムで大復活を遂げ、聖カスバードの不滅を宣言するという。。。

。。。というところで、夢から覚めた(笑)

今日の聖書の言葉。

しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
ペトロの手紙一 4:16 新共同訳

クリスチャンとして苦しみを受ける。。。

それこそ、皇帝礼拝を拒否して、競技場でライオンに食われる3世紀のレベルから、職場の飲み会で酒を断って、翌日ハブられる昭和のレベルまで、いろいろ想像しちゃう。

逆に、なんで、クリスチャンをいじめてやろう、と権力者側は思うんだろう、という疑問もあるよね。

ふつうに納税して、市民の義務を果たして、まじめに仕事して、ひとに親切で、静かに善良に暮らしてたら、別に、クリスチャンをいじめる必要は、ないんじゃない?

。。。というのは、実は、あまい考えだ。クリスチャンは、この世界のからくりを、根本的に否定する考えを持つヤバイ人たちだからね。。。と権力者側が思ってしまっても不思議ではないことが、新約聖書には、書いてある。

それが「位」「主権」「支配」「権威」をめぐる新約聖書の言説なんだ。

かんたんに言えば、位、主権、支配、権威というのは、この世界のシステムを成り立たせている諸要素のこと。聖書協会共同訳では「この世のもろもろの霊力」* と呼んでいる。

どういうことかというと。。。

「位」というのは、ある人に権力を付与するポジションのことだ。

「主権」というのは、その権力の内容で、ざっくりいうと、人・物・時・場所を自由に処分することができる力。

「支配」というのは、その権力を行使することができる、決められた範囲。

「権威」というのは、その権力を行使する人間と、行使される側との間の関係性で、つまりは、命令と服従だ。

わかりにくいかもしれないので、ラーメン屋にあてはめて、説明してみよう。。。

ラーメン屋の親父は、店主という「位」についている。なので、だれを雇い(人)、どんな什器と食材を使い(物)、いつ開店し(時)、どこに店を出すか(場所)について、自由に決定できる「主権」をもっている。だけど、その主権が及ぶのは、自分の店のなか限定。隣りのライバル店まで「支配」することは、できないんだ。で、親父は、気に入らないふるまいをした客には、出てってくれ、と怒鳴って、入店禁止にできる「権威」を持ってる。親父が怒ったら、客はどうすることもできず、従うしかない。

この「位」「主権」「支配」「権威」の組み合わせで成り立つ社会の構造は、幼稚園からラーメン屋、町内会からプロ野球、企業や結社、学会から国家権力にいたるまで、すべてに共通するものなんだ。国家についていえば、ローマ帝国でも徳川幕府でも、ソビエトでもアメリカでも、独裁政治でも民主主義でも、人類史上のすべての政治形態にあてはまっちゃう。

で、新約聖書のオソロシイところは、その先にあるんだ。

なんと「位」「主権」「支配」「権威」を創造したのは、イエス・キリストだ、と新約聖書は言うんだ。しかも、キリストに対して奉仕させる目的で、それらを創造した、とまで言う。たとえば、この箇所とか。

見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
コロサイの信徒への手紙 1:16 新共同訳

そこから論理的に考えると、イエス・キリストは「位」「主権」「支配」「権威」に対して、優越している、ということになる。たとえばこの箇所。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 
エフェソの信徒への手紙 1:20-21 新共同訳

ということは、さらに論理的に考えれば、「位」「主権」「支配」「権威」はキリストに対して、従僕(しもべ)の身分にある、ということになる。はっきり言ってるのは、この箇所。

キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
ペトロの手紙一 3:22 新共同訳

もし、クリスチャンが、新約聖書に書いてあるままの世界観を信じているとしたら、どういうことになるのか。。。この地球上のどんな「位」「主権」「支配」「権威」であっても、簡単に相対化してしまうような、スイッチを、クリスチャンは心の中に持っている、ということになるんだ。

そのスイッチとは、イエス・キリストだ。

そのスイッチがオンになってしまうと、クリスチャンは、相手がどういう「位」「主権」「支配」「権威」であっても、「わたしは恐れません=あなたには従いません」モードに突入してしまう。そうなってしまったら最後、たとえ、暴力をふるわれても、何度でも、生き返ってくる。

かくして『メンヘラくんと、ゾンビちゃん』の物語は、延々と続くのだ。

註)
* Cf. ガラテヤ 4:3

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?