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しきたり? 福音上等!

上の言うことに黙って従いましょう、というのが、暗黙の了解というか、同調圧力というか、われわれの習い性というか。。。とにかく、偉い人を立てながら、波風立てずにやっていきましょう、という。。。

それに対して、今日の聖書の言葉は、あきらかにノーをつきつけている。

今日の聖書の言葉。

こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
ガラテヤの信徒への手紙 1:10 新共同訳

あー、まーたパウロさん、スイッチはいっちゃってるなー、怒ってる、怒ってる。。。と思わせる言葉だ。

なんでこんなに熱くなってるかというと、どうしてもこの言葉をパウロが手紙で書き送らなければならない事情があったんだ。

どういうことかというと。。。

イエスは、ユダヤ人が待望するメシア=油注がれた者=キリストとして到来したわけだから、イエスに従う者たちは、最初の最初から、ユダヤ人の伝統と習慣という枠組みの中に、がっちり取り込まれていた。

つまりねー、「しきたり!」(トラディション!)ということ。

ユダヤ人が重んじてきた律法(旧約聖書の最初の五つの書)には、ぜんぶで600もの戒めが記されている。で、それらを日々の生活の具体的場面に適応させるために、戒めを類推的に解釈して実践を導き出す「決疑論」によって、さらに何千もの決まりごとが生み出される。それらの戒めと決まりごとの総体が「しきたり!」だ。

そして「しきたり!」に沿って生きることこそ、ユダヤ人のアイデンティティーなんだ。

そういうようなユダヤ人のメシアがイエスであるわけだから、イエスに従うとは、イエスを信じ・かつ・ユダヤ人の「しきたり!」をきっちりまもる、という要求が、あたりまえのこととして、あった。

ところが、予想外の事態が進展していく。。。ユダヤ人ではない異邦人が、イエスを救い主として信じるようになってきたんだ。これを、ユダヤ人クリスチャンに対して、異邦人クリスチャンと呼ぶ。異邦人クリスチャンは、どんどん増えて、数としてユダヤ人クリスチャンを凌駕するようになっていった。

この状況を受けて、大長老ヤコブ(イエスの弟)は、エルサレム教会会議を開催した。そして、ユダヤ人クリスチャンは従来とおり「しきたり!」を守って生きるけど、異邦人クリスチャンには「しきたり!」の重荷を負わせないことにする、というエポックメーキングな大英断を下した *¹。

こうして、イエスの福音(よい知らせ)が確立された。つまり、ひとは「しきたり!」を守ることで救われるのではなく、ただイエスを信じるだけで救われる、ということなんだ。

わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
ローマの信徒への手紙 3:28-29 新共同訳  

このエルサレム教会会議で、異邦人クリスチャンはユダヤ人の「しきたり!」を守らなくてよい、という全体合意が形成されたはずだった。。。

ところが、どういうわけか、謎の勢力の巻き返しが起きて、いつのまにか「異邦人クリスチャンもユダヤ人と同じ『しきたり!』を守らなければ、救われない」という教えが、はびこってきた。そして、ガラテヤのクリスチャンたちの間にも入り込んできたんだ。もろに影響を受けて、ユダヤ人みたいに割礼を受けようとする異邦人クリスチャンまで出てきた *²。

だからパウロは怒ったんだ。なぜならそれは、福音の根幹を揺るがせにするものだったから。

ひとは律法の行いではなく、ただイエスを信じて救われる。それが福音なのに、そこにプラスして「しきたり!」の順守を要求したら、福音が福音でなくなっちゃう。

パウロにとって不利なことに、「しきたり!」の順守を要求する謎の勢力は、自分たちのバックに、あの大長老ヤコブ(イエスの弟)がいることを匂わせるかのように、大長老直筆の推薦状を見せびらかしてきた *³。

こと、ここにいたって、パウロは「偉い人たち」について、次のように言明しなければならなかったんだ。

この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。
ガラテヤの信徒への手紙 2:6 新共同訳

イエスの弟? 使徒の筆頭? それが何? そんなの、わたしにはどうでもよいことです、って。。。

つまりねー。。。どんな偉い人が言うことでも、それが福音に反してたら、オレは完全に無視しますんで、ヨロシク、という「福音上等!」の宣言だ。

これを、神学的には福音主義と言うんだけど、このようにして、新約聖書のなかに、将来的にプロテスタントとして育つことになる種が蒔かれたんだ。

註)
*1.  Cf. 使徒言行録 15:1-21
*2.  Cf. ガラテヤ 5:2
*3.  Cf. コリント二 3:1

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