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自分のコダワリ =「狭い囲い」(仮)

いまー、わたしのー、ねがーいごとがー、かなーうなーらばー、つばーさーがー、ほしーいー♪

もし、自由に空を飛ぶことができたなら。。。

搭乗口も入国審査も税関もパスして、世界中いろんな所を見て回りたい。

自分は、新約聖書のテサロニケの信徒への第一の手紙4章に書かれている、生きたまま「空中に引き上げられる」という出来事が、いつか、本当にこの身に起きたらいいなあ、と憧れもし、期待もしている。

空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一 4:17 新共同訳

もし、それが起きたら、きっと、鷲(ワシ)になった気分を味わえるに違いない。

今日の聖書の言葉。

主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
‭‭イザヤ書‬ ‭40:31‬ ‭新共同訳‬‬

かなしみのなーい、じゆうなそらーへ、つばさ、はためかーせー♪

これはね、べつに物理的に空へ引き上げられる、というだけの話では無い、と思うんだ。

「自分」が生きている上で、自分を縛っている、ものの見方、考え方、感じ方、先入観、決めつけ、偏見、思い込み。。。生きる、イコール、そういう狭い囲いの中に身を置いて生きることだ。。。ある意味、そういう囲い無しには、生きて行くことができないんだもん。

でも、そこから解放され、上へ引き上げられて、自由になることができる。。。それも、単なる願望ではなくって、神からの約束として与えられていて、だから、その実現を期待して生きることができるんだ。

なので、「自分」の執着している、いま現在のコダワリというのは、ほんとうのところは、「狭い囲い」(仮)  なんだよな、と思うようにしている。

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