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おでこに「敗北者」のレッテルを貼られた敵対者たち

「男は外に出ると7人の敵がいる」ということわざがあるけど、自分の場合、1,500人ぐらいから怨念を飛ばされる経験をしたことがある。てか、いまも飛ばされてるのかもしれないけど。。。

その圧は、すさまじかった。だから、それを経験してから、自分はだんだん、正義を貫いて発言し続ける、というスタンスを取らなくなった。半端ない疲労感を絶えず味あわされるのに嫌気したんだ。

でも、自分の経験に比べたら、イスラエル・ユダヤ人が苦難の歴史で経験した内容は、とても筆舌に尽くせない。

世界を創造した唯一の神によって愛されているイスラエル・ユダヤ人。彼らは選民と呼ばれる。

だけど、なぜ選民が、世界のあちこちで敵対者に遭い、苦しみを受けなければならないのか?  

これは「神義論」をめぐる問い(善なる神の支配のもとでなぜ世界に悪があるのか、という問い)なんだけど、この問いの中から、第二神殿時代のユダヤ教(後期ユダヤ教)の独特な世界観が形成されて行った。

それは、どういう世界観かというと、神は洪水後の世界を、天使的諸力の手にゆだね、その結果、諸国・諸民族・諸言語・諸文化・諸宗教の上に「後見人」としての天使的諸力が立てられて、人間を監督するようになった、という世界観だ *¹。

この「後見人」としての天使的諸力(ストイケイア)については、パウロがガラテヤ書で言及している *²。

で、それら天使的諸力は、神に仕える存在でありながら、ときどき、あたかも神に敵対するかのようなふるまいにおよぶことによって、イスラエル・ユダヤ人を苦しめるのだ、というふうに物事を見る。

これだと、世界を創造した神の唯一性と、その神に愛されているイスラエル・ユダヤ人が敵対者に苦しめられる現実とが、矛盾なく整合的に説明できる。

この説明の仕方は、ほんと、悲しみにあふれている。「神さま、なぜですか?」というイスラエル・ユダヤ人の魂の叫びから生まれた考え方だから。。。

今日の聖書の言葉。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
ローマの信徒への手紙 8:31 新共同訳

敵対者の攻撃におびえて生きる中から生まれたイスラエル・ユダヤ人の世界観は、わたしたちが現実に生きるかぎり、敵対者は避けられない、と告げているかのようだ。。。

ところが、新約聖書は、そういう第二神殿時代のユダヤ教(後期ユダヤ教)の世界観を継承しながら、天使的諸力の描写に深入りすることはせず、しかも、その天使的諸力を完全に打破してしまう、新しい世界を提示しようとしているんだ *³。

それは、イエス・キリストの十字架と復活によって、天使的諸力は打破された、と宣言しているコロサイ書に端的にあらわれている。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました
コロサイの信徒への手紙 2:13-15 新共同訳

これは、実に痛快な世界観だよ! だって、敵対者たちのおでこには、もうすでに「敗北者」というレッテルが貼りつけられている、というんだから。

敵対者は、わたしたちの「罪」を根拠として、攻撃して来る。その最大の攻撃の武器は「死」だ。

ところが、イエス・キリストは、わたしたちの身代わりに十字架で死ぬことによって、わたしたちの「罪」を完全に赦してくれた。こうして、敵対者は、わたしたちを攻撃する根拠を失ったことになる。

そればかりじゃない。イエス・キリストは三日目に復活することによって、死を打ち破った。これにより、敵対者の最大の攻撃の武器である「死」は、無力化されたんだ。

残念ながら、わたしたちの現実の中では、敵対者は今なお起こって来る。

けど、もう、恐れなくていいんだ。なぜなら、イエスの十字架と復活は、わたしたちには完全な勝利をもたらし、敵対者には完全な敗北をにもたらしたんだから。いま、もう、すでに。。。それが「神の現実」だ。

わたしたちが、この「神の現実」を受け容れて生き始めるとき、わたしたちは恐怖から解放される。

註)
*1. ジャン・ダニエルー『教父に見る天使とその使命』1953年、pp.14-16.
*2. Cf. ガラテヤ 4:1-11
*3. カール・バルト、天野有訳『キリスト教的生Ⅱ』pp.370-371.

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