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父よ、父よ。。。

自分が子どものとき、転んで、ひざをすりむいた場合、べそかいて呼ぶのは、きまって「おかーさーん」だった。すると、母が来て、井戸水の手押しポンプで傷を洗って、赤チンを塗ってくれた。

だけど、ヤブで遊んでいて、でっかいスズメバチが胸にとまり、ブーン、ブーンと羽根を鳴らすような場合には、凍り付いた声で呼ぶのは、ぜったいに「おとーさーん」だった。

すると、ヤブをかきわけ、父がきて、大きな手で、素手で、スズメバチをひょいとつかみ、向こうへ持って行って、パッと空に放つんだ。その光景は、いまも、何か怖いことがあると、よく思い出す。

原初の時代、地上にひとが増え始め、だから、人と人が助け合って暮らしをする仕組みが、まだ、ちゃんと出来ていなかったような頃には、頼りにできるのは、「父」しか、なかったんじゃないだろうか。

そういう頃の「父」は、たぶん、戦士と祭司と賢人と審判者を、ぜーんぶ、ひとりで兼ねたような存在だったんだと思う。聖書に出て来る人物でいうと、アブラハムみたいな族長 *。まあ、社会によっては「母」が、その役回りをつとめた土地もあるんだろうけど。。。卑弥呼みたく。

ヨーロッパですら、平均寿命が35歳という時代が300年前ぐらいにあったわけだから、三千年、四千年前の社会なら、"白髪まじりの長いひげをたくわえているこのわたしが父です" というだけで、もうなんだか、神秘的オーラをかもしてたんじゃないかな。げーっ、このひと、どうして死なずにいままで来れたんだ、シンプルにスゲエ。。。カミですか? という畏怖。

新約聖書は2000年前に書かれたけれど、その時代は、おそらくまだ「父」についての、そういう畏怖の感覚が、濃厚だったんだろうと思う。

今日の聖書の言葉。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
コリントの信徒への手紙二 1:3 新共同訳

いまの「父」っていったら、どんな存在なんだろうね。。。

原初の時代が終わり、だんだん社会が発達して行くにつれ、最初は「父」がひとりで担っていた機能が、一個ずつアウトソーシングされ、戦士も、祭司も、賢人も、審判者も、ぜーんぶ分業化されて、別々の職業になった。

やがて、すべてをはぎ取られた「父」は、工場労働者となり、サラリーマンとなり、最近の経済学では、なんと、市場から調達される生産財の扱いだって。。。ひでえ(泣)

さらに、社会全体が長寿化したから、長生きが、珍しいことでも、なんでもなくなった。かつては、長老とは賢人を意味したけど、いまは、老害かつ化石、みたいな扱い。。。もっと、ひでえ(泣)

なので、聖書に、神が「父」として描かれていても、現代人には、感覚的にピンとこないんじゃないかな、と思う。

でもね。。。そういう現代人でも、魂のどこかでは、戦士と祭司と賢人と審判者をぜーんぶ兼ねたような、ウルトラの父を、それが、たとえフィクションであったとしても、待ち続けてるんじゃないかな。たとえば『ダイ・ハード』のジョン・マクレーンとか、『エンド・オブ・ホワイトハウス』のマイク・バニングとか。。。

自分の場合、神を「父」と呼ぶときに、思い浮かべるのは、あの、恐ろしいスズメバチの顔。。。そして、そいつを、ひょいとつかんで、どこかに吹っ飛ばしてしまう、大きくて、ごつごつして、あたたかい、庭仕事の泥がついている、あの父の手だ。

註)
* Cf. 創世記 14:14-20

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