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神はどのようにして人となったか?

東洋のスピリチュアリティでは、あらゆる執着を捨てることが「救い」であるわけだけど、身長172センチ、体重69キロ、年齢55歳のひとりの人間がすべての執着を手放そうとしてみても、難しい。非常に難しい。絶望的なまでに難しい。。。というのが自分の感想。

だとしたら、永遠で無限で全知で全能の神が、神としてのあり方を捨てるなんて、想像できないぐらい難しいだろうなあと思う。

プロジェクトを中止する、仕事を辞める、店をたたむ、社長を退く、教皇を退位する、王冠を捨てる。。。いろんな辞め方があるけれど、持ってる力や影響力が大きいほど、捨てるのは難しい。

そして、たぶん「全能のパラドックス」と言われる問いにも関係するのかもしれない。それは、果たして全能の神は全能の神であることをやめることができるのか、ということだ。

今日の聖書の言葉。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2:6-8 新共同訳

新約聖書の衝撃的な宣言によれば、神は神でありながら、神であることに固執しようとは思わず、神としてのあり方を捨てて人間となり、十字架につけられて死んだ、そして復活した、それがイエス・キリストだ、と言う。

神が神をやめて人間になるって、どういうことなんだろう? 

このことについては古代から近世にかけてクリスチャンたちの間で、いろんな意見が出た。おおまかに言っても、こんなに諸説ある。

1.神が人間になるのは絶対に不可能なので、人間のように見える幻として現れた。だから神が本当に人間になったわけではない(グノーシス)

2.神はイエスという人間を選び、ヨルダン川の洗礼のときに神の霊がイエスに入ることでイエスは神になった。でも、十字架で死ぬ直前に神の霊はイエスから去った。なぜなら神は死ぬことができないから(養子論)

3.神は、イエスを神的な存在として創造した。イエスは神のようであるけれど神ではなく、すべての被造物の頂点に立つ神的な人間として生まれた(アリウス主義)

4.神はマリアの本質から血と肉を取ってイエスになった。イエスの中で、人間としての性質は、神としての性質によって、すべて置き換えられた。だからイエスは神であって本当の人間ではない(単性論)

5.神はマリアの本質から血と肉を取ってイエスになった。イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったままひとつに結び付いている。それらは混ざり合うことなく、分離することなく、永遠に結合している(カルケドン)

6.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。神としての性質と、人間としての性質は、その間を自由に融通することができる(ルター派)

7.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。しかし、神としての性質が譲歩することで、人間としての性質が前面に出る(ケノーシスキリスト論)

8.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。しかし、神としての性質は完全に後背に隠れて、人間としての性質が全面に出る(クリプトキリスト論)

9.イエスの中で、人間としての性質と、神としての性質は、それぞれの性質を保ったまま永遠に結合している。神としての性質は、人間としての性質の外部に無限に広がっている(エキストラ・カルヴィニスティクム)

10.神はマリアの本質から血と肉を取らないで、マリアの胎に無から新しい人間を創造し、それに神の霊が宿ることでイエスになった。だからイエスは人間ではあるけれど、ほかの人間とはつながりを持たない(再洗礼派)

神が人間になるって、人間の理解を超えた不思議な出来事だよね。

だから、それを理解しようとすると、どうしても考え方の違いが生じてしまう。これはまあ、しょうがないよなあ、と思う。だって、限界のある人間がすることだもの。

しかし、考え方が違えば議論になり、議論がヒートアップすれば論争となり、論争が決着しないと紛争になり、紛争を解決するために実力行使に発展してしまう。いや、発展と言うべきか、後退と言うべきか。。。

重要なポイントは、神が神としてのあり方に執着しなかったことであるはずなのに、いつのまにか自説に固執して論敵をやり込めるのに必死になってしまう。これは、キリスト教の歴史で繰り返し起きたことだ。

自分はクリスチャンとして、自分が信じる立場がもちろんある。上記の諸説で言うと5番目の「カルケドン」が自分の立場だ。なので、違う立場からの発言を聞くと、頭に血が上ってしまうことがないわけではない。。。

だって、人間だもの。。。

でも、冷静になって考える。

神が神としてのあり方を捨てて人間になったのは、論敵をやり込めるため? 違うだろ? そう自分に言い聞かせる。

かえって自分を無にして
僕の身分になり
人間と同じ者になられました
人間の姿で現れ
へりくだって
死に至るまで
それも十字架の死に至るまで従順でした

神が人となったのは、わたしたちに生き方の模範を示すためだ。

それは。。。

● 自分を無にすること
● 僕(しもべ)となって他者の足を洗うこと
● へりくだること=他者が自分より優れていると認めること
● 自分の死を受け入れること=自分の限界を認め、負けを受け容れること
● 自分の小さな十字架を取ってイエスのあとに従うこと

そういう生き方だ。

イエスよ、どうか、執着から、わたしをお救いください。

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