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普遍性と限界性のはざまで愚直にイエスだけを見つめ続ける。

イエスだけが救い主だ。だけど、すべてのひとがイエスを受け容れているわけじゃない。すべてのひとにイエスを信じてほしい。けれど、現実はそうなってはいない。

もしかしたら、すべてのひとがイエスを受け容れる日が来るかもしれない。その日を望み見る。しかし現時点では、救いから漏れてしまうひとが出てしまうように見える。

もちろん、見える所に従って判断するのは間違いだ。けれど、見えるところだけで考えた場合、イエスによって救われるひともいれば、イエスを拒んで救われないひともいる、ということになる。

これは、救いの普遍性と限界性という問題だ。『銀河鉄道の夜』を書いた宮沢賢治の問題意識はそこにあった。だから賢治は登場人物のカムパネルラにサザンクロス駅(十字架)で下車させずに石炭袋(陰府)まで降下する道を行くよう選ばせたのだ。

でも、作品世界を創造する作家は、創造主に似た者として準創造という行為を行う「準創造者」だ、というC.S.ルイスの文芸理論に照らして考えてみたら、どうなるだろうか。。。

準創造者である賢治は、最後のひとりが救われるまでという願いをもってカムパネルラを陰府に降下させた。それは、そのペーパーの世界の原像である「現実世界」で創造者がほんとうに行ったことと奇しくも似ているのではないか? なぜなら聖書がこう言っているからだ。

霊においてキリストは
捕らわれていた霊たちのところへ行って
宣教されました

新約聖書のペトロの第一の手紙に書かれているこの言葉は「キリストの陰府降下」と呼ばれていて、それはさらに、こう続く。

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは
彼らが、人間の見方からすれば
肉において裁かれて死んだようでも
神との関係で
霊において生きるようになるためなのです

今日の聖書の言葉。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
ヨハネによる福音書 14:6 新共同訳

イエスだけが道、イエスだけが真理、イエスだけが命。これが聖書の示す真理だけれど、その真理が排他的でなく包括的であるためには、われわれは何をどのように見なければならないのだろうか? 

第二バチカン公会議の立役者を務めた神学者のひとりカール・ラーナーは「すべての人間は匿名のキリスト者だ」という衝撃的な言葉で、包括的な真理であるイエス・キリストに目を向けるよう説いた。それは、ただひたすらイエスを見つめ続けることによって可能になる。いったい、どいうことなのか? 

ラーナーによれば、人間は志向的な存在として、神によって創造された。「志向性」とは、人間が自己から脱して対象に自らを投げ出す仕方で対象を認識して世界内に存在するという「存在様式」のことを指している。

そのように人間を定義した上でラーナーは、人間が志向的な存在であるための重要な機構がイエス・キリストの「受肉」だ、と説く。つまり、神が神としての在り方を固守しようとは思わないで、自らを低くし、受肉して人間になったということ、それはつまり、神が自己を脱して対象である人間に自らを投げ出した受肉・十字架・復活の行為によって神は「志向性」の原型となり、さらに、その原型にかたどることによって人間の在り方を規定した、と言う。

神は人を自分のかたちに創造された

これをラーナーの用語で「ケノーシス・キリスト論的超自然的実存規定」と言うのだけれど、志向的な存在である人間が志向的であるワケは、イエス・キリストの受肉と十字架と復活にすべて負っているから、ということになる。そのことを強く示唆する言葉がフィリピの信徒への手紙に記されていて、そこに出て来る「自分を無にする」といのがケノーシスという言葉の意味だ。

キリストは
神の身分でありながら
神と等しい者であることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕(しもべ)の身分になり
人間と同じ者になられました
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで従順でした
*⁴

このため、神はキリストを高く上げ
あらゆる名にまさる名をお与えになりました
こうして、天上のもの
地上のもの、地下のものがすべて
イエスの御名にひざまずき
すべての舌が
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて
父である神をたたえるのです
*⁵

こうして、人間はすべての人間がただ人間であるということのゆえに「匿名のキリスト者」である、と観ることになる。ラーナーのそれはあくまで論なので、最終的な真理であるかどうかは世界の終わり=キリストの再臨を待たなければならないけれど、しかし、ラーナーの提案は、救われている実感から遠く離れているように思われる「今日」を生きるわたしたちにヒントを与えている。

つまり、わたしたちが無意識に前へ前へ、どこに続くかわからない道であっても進んで行こうとしてしまうのは、「道」であるイエスがわたしたちをそのように規定しているから。。。わたしたちが現実に失望しながら、まだどこかに真理があるのではと探し続けようとするのは、「真理」であるイエスがわたしたちをそのように規定しているから。。。わたしたちが病み衰え小さくなりながらも、すこやかで光り輝き永遠に変わることのない命にあこがれ続けるのは、「命」であるイエスがわたしたちをそのように規定しているから。

あなたがたの内に働いて
御心のままに望ませ
行わせておられるのは神であるからです
*⁶

そして、聖書の言葉にあるように、ほんとうに「すべてのものが」イエスの御名にひざまずき、ほんとうに「すべての舌が」イエスは主であると宣言する、その日が来ることを、普遍性と限界性のはざまで揺れながら、愚直に信じ続けたいと思う。

こうして、天上のもの
地上のもの、地下のものがすべて
イエスの御名にひざまずき
すべての舌が
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて
父である神をたたえるのです
*⁷

註)
*1.  Cf. ペトロ一 3:19
*2.  Cf. ペトロ一 4:6
*3.  Cf. 創世記 1:27
*4.  Cf. フィリピ 2:6-8
*5.  Cf. フィリピ 2:9-11
*6.  Cf. フィリピ 2:13
*7.  Cf. フィリピ 2:10-11

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