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二度目に生まれる、いや、三度目に生まれる

やさしい言葉を語っているように見えて、裏に悪意があることを、直感的に感じ取れてしまう場合がある。

もちろん、語られた言葉を全部文字に書き起こして、さあ、この言葉のどこに悪意があるか指摘してごらん、といわれても、できないんだけれど、なんだか感じてしまえることがあるんだよね。。。

今日の聖書の言葉。

口は脂肪よりも滑らかに語るが
心には闘いの思いを抱き
言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。
詩編 55:22 新共同訳

やさしい言葉で、ぐさっと相手の心にダメージを与える。。。短剣で刺すというより、おいしそうなメロンに毒を仕込んでおいたぜ、みたいな。。。

語る言葉と、心の奥底が、食い違ってしまうことは、普通は、語る当人しかわからない。みんな悟られないよう、ポーカーフェイスを決めているから。自分も、表の言葉と裏の思いが分離しているなあ、と自覚している。残念なことです、キリエ・エレイソン。。。主よ、あわれみたまえ。。。

表と裏の分離状態を、そのままかかえて天国に行ったら、どういうことになるだろう。。。

白い衣を着て、ニコニコしながら賛美の歌を、美しく永遠に歌い続けるけれど、心に闇を抱えている、みたいな?

こうなると、ポータブル地獄をかかえているわけだから、天国にいても、実質的には地獄にいることと変わらない。

裏も表もない人間。。。

ジョン・ウェスレーの表現でいう「クリーンな心、単一のまなざし、神にみたされた魂」* になるためには、心の中から変えられることが必要だ。

キリスト教のカレンダーでは、復活祭の50日後に聖霊降臨祭が位置付けられている。わたしたちにとって、復活のイエスに出会う、という一度目の変容と、聖霊に満たされる、という二度目の変容が、必要だ、ということが、祝祭の時間軸において示されているのだと思う。

裏と表が分裂した人間を、ありのままで神のふところに受け入れるために、イエスは十字架にかかり、復活してくださった。この事実を受け取ることで、わたしたちは一度目に「生まれる」。

ストーリーはそこで終わらない。裏と表が分裂した人間を、裏も表もない統合された姿に変容するために、イエスは聖霊を与えてくださった。この事実を受け取ることで、わたしたちは二度目に「生まれる」。

聖書は、こう言っている。

キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
ガラテヤの信徒への手紙 4:19 聖書協会共同訳

肉体的な誕生からカウントしはじめるなら、誕生が三回あることになるかもしれない。
赤ちゃんとして生まれ、カウント・ワン。
キリストを信じて生まれ、カウント・ツー。
聖霊に満たされて生まれ、カウント・スリー。

カウントというより、天国へのホップ・ステップ・ジャンプと言ったほうがいいか。

万物の造り主である神よ、わたしたちを聖霊のたまもので満たし、力づけてください。いつもみこころにかなうことを求め、み旨を行う者となることができますように。
『教会の祈り』「祈願集」より 復活節第七木曜日の祈り

* "a clean heart, a single eye, a soul full of God", The Works of Rev. John Wesley, vol. XII, p.8.

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