その傷は、わたしのため。。。
クリスチャンになって、ずーっとこころにギモンとしてあり続けていることがいくつかあって、そのひとつが、復活し完全体になったはずのイエスの手のひらにナゼ釘の傷あとが残っていたのか、という問題。
あと2つあるんだけど、それはまた別の機会に。。。
今日の聖書の言葉。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤ書 53:5 新共同訳
で、今日の聖書の言葉を読んでいたら、なんか突然、「あー、もしかして、もしかしたら、そういうことなのかも!」と思ってしまったんだ。
ギモンが氷解する瞬間。しかも、ぜんぜん予期せずに。
どういう気づきが与えられたか、というと。。。
新約聖書のガラテヤの信徒への手紙 3:3 でパウロが言ってる表現が、文語訳聖書だと。。。
十字架につけられ給ひしままなる
イエス・キリスト
。。。となっている。
そこから思ったんだ。
イエスはたしかに復活したけど、復活したと同時に、スピリチュアルな在り方としては、イエスは今なおわたしたちのために十字架に釘づけられたままの状態でいてくれるんじゃないか、と。
だから、復活して弟子たちのあいだを自由に動き回っていたイエスの手には、釘の傷あとがしっかり付いたままになっていたんじゃないかと。。。
十字架にかかり、死に打ち勝ち、三日目に復活し、永遠に生きていて、しかもなお、わたしたちのために十字架につけられたままでいてくれるイエス・キリスト。。。
これが正しいとすれば、いまこの瞬間も、イエスの手には釘の傷あとがあることになるんだよね。。。
それは、ほかならない、この自分を救ってくれるためなのだ。
ありがとう、イエスさま。。。
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