見出し画像

反グローバリズムで、現代人を批判する機会の増加によって、では大和魂とは何かを詳説する必要があろうかと思う。

江原啓之は言った。日本人は真心をなくしたと。真心をなくしたらそれはもう日本人ではない。真心をなくしたということは日本人の本性であるところの真の精神性をなくしたということだからだ(江原はここまでは言っていない、日本人ではないというのは私の考えだ)。真の精神性をなくしたら場面場面で上手く立ち回るピエロにしかならない。現代人は実にピエロでしかなく、魂のないゾンビだ。

江原啓之は言った。日本人は物質信仰主義になったと。古事記の時代、3種の神器というものがあった。1960年代、あのアメリカでヒッピーが抬頭した頃、偶然にも日本でも物質主義が抬頭した。それは偶然ではなく、アメリカの影響だっただろう。3種の神器は冷蔵庫、洗濯機、テレビになった。ユダヤ金融資本のメディア洗脳によって、物質崇拝にさせられた。

現代人のありさまについては、トピックを改めて述べるとして、それでは日本人の精神、つまり大和魂とはいったい何だったのかを追求しよう。

大和魂と聞くとパッと思い出されるのが、あの神風特攻隊のことだ。ユダヤ人はこれの恐ろしさによって、日本人の精神性そのものを撃滅せねばならない、としてGHQに宗教教育の禁止を命じた。

神風特攻に直接的に関わってくる精神性は、滅私奉公と般若心経である。

色即是空
空即是色

西暦150年ごろの哲学者ナーガールジュナは、知覚に実体などない、単に気がするだけだと説いた。気がするだけなら気にしなければ完全にないことになる。痛みや恐れというものも、気がするだけで実体などないものである。であるならば、我というものも、気がするだけで存在しないものである。すべての心的なものは、気しかなく本当はないものである。知覚がすべて心的なものに使われるのならば、知覚もなにもかもないものである。

そう言った風に、すべての存在を否定していくのが般若心経である。

それが滅私ということになり、慈悲しかないなら奉公しかないということになるのである。

この概念は武士道精神に転用された。つまり滅私奉公と忍耐力に関する精神性に利用された。これは元は武士の論理だが近代化しても大本営によってそういったことが鼓舞された。

しまいには教育において「痛いの痛いの飛んでいけ」と言わしめるまでになった。つまり痛いと思っている自分が悪いというのである。

以上は滅私奉公と忍耐力に関するケースを挙げたのであるが、こういう風にして、日本人の精神性は儒、仏、道教等によって形成されてきた。

ただ一つ認識に間違いが起こりやすいこととしては、神道は思想を形成しないということである。右翼的人々としては、天皇を神と仰ぎ精神性の中枢としたいのであるが、実際、神話には神格がない。尊王攘夷以降、天皇を神として崇め奉り、日本人の本質がここにあるのだとする説がプロパガンダされたが、今の右翼的人々はこんなものにまだハメられている。

古事記で最も印象的な二つのシーンを挙げよう。美しかった妻が黄泉の国へ行って、もう一度会いたいと思った伊弉諾は、黄泉平坂を通って伊弉冉の下に行くが、妻がゾンビになっているので怖くて一目散に逃げだした。それで地上に帰って、「ああ穢かった」とかいって小川で体を浄めていたら、その雫でいくつかの神体が生まれた。

この伊弉諾という神は神格ではない。人格である。

神格であるならば、妻の表面的な外形にではなく、常に魂の本質と向き合わなければならない。容姿が美人だろうがゾンビだろうが、真の美しさは心の在り方にあるのであり、そこに注目せず外見だけで贔屓するならば、それは神ではなく人間である。

つまりこの伊弉諾というヤツは神なんかじゃない。何の参照点も見当たらない下衆い人間である。

もっと言えば天武とか持統がでっち上げたキャラに過ぎない。小池百合子がカイロ大学卒業をでっち上げたノリと何も変わらない中身のないキャラである。

次に、太陽を司る姉は乱暴者の弟が怖くて岩のくぼみに隠れた。

この姉は神格ではない。人格である。

神ならばだ、乱暴者の弟に対して振る舞いとはこうあるべき、という指導を与えるべきであろう。怖いということは少なくとも、弟の振る舞いが良いとは思っていない。良いと思っていないならば、自分の意見を人間より完璧に表現できなければならない。それを、怖くて隠れていたなんていうのは並みの人間以下ではないか。

つまりこの天照というヤツは神なんかじゃない。何の参照点も見当たらない下衆い人間である。

そこから生まれた邇邇芸命というのが神なわけがない。元々神でない天照が人間化させた子供が神なわけがない。

日本神話はこのようなデタラメで出来ているのであり、右翼的な人々は物事の本質について、あまり考えない人々である。

あるいはこの人たちは神道は汎神論であり、我々は日本の美しい自然を愛しているのである、というのかもしれない。

自然が美しいのには賛成するが、それと天皇崇拝との関連性はない。自然は天皇が作ったのではない。作ったと言えば彼らによると、伊弉諾がアメノヌボコでポタポタとやったらしいが、矛盾したキャラに信ぴょう性はない。

右翼的な人々は、ファンタジー小説で美しい自然を汚しているように見える。

日本神話には何の教訓もない。大和朝廷が支配力を強化するためのただの洗脳装置である。

まあそこで、日本人が思想の元とした要素の中から、神道は外れるのである。洗われた要素は、諸子百家と仏教である。

そこで最も中核に存在する概念は仁であろう。あるいは慈悲もこれに類する。果ては、博愛、アガペーでも良いが、これらの区別はあまりない。

つまり、他者を思いやる気持ち、これが義も礼も生むのであり、あらゆるすべての根幹をなすのである。

次いで派生する義や礼が、職人の完璧さや、時間や約束を守るという精神性に発展した。

天国と地獄は道教の概念が仏教に習合したものが中国からもたらされた。

ここまで述べると、諸子百家と仏教は中国から来たのであり、中国、朝鮮と日本の精神性が同じではないか、大和魂の特殊性とは何か、という問題が次に出てくるのである。

ここで右翼的な人は、鬼の首を取ったり、ということで天皇陛下だ!と叫ぶのである。

実際には地理的な問題があるだろう。

中国や朝鮮半島は、多種多様な民族の盛衰にさらされ、多種多様な文化が入り乱れていた。そこで人々は柔軟になり様々な教えを考察の要素と見なした。人格を形成するのは色々な要素を咀嚼した自由な自己だった。

それでノリが都会的で軽くなり、死生観に深刻さがなくなった。

日本は単一民族で文化が画一的であり、一つの思想に対して真摯になる。ノリが田舎的で重く、深刻な死生観である。

こういった事情が、日本人の性質を運命づけた。

そうした物事を総合すると大和魂になる。

こういった合理的な大和魂の説明を廃し、天皇陛下だ!と叫ぶのは、尊王攘夷から大本営に至るまでの洗脳教育の賜物だ。

戦後、我々はGHQの洗脳教育とメディアコントロールに晒されてきたが、明治維新から戦後までも同様に洗脳されてきたのだ。その明治維新を司った「偉人達」はことごとくフリーメイソンなのであり、

要はユダヤ金融資本の洗脳下にある、ということはずっと変わらないのである。

洗脳下になかったのは、人心のコントロールではなく、武力によるコントロールがなされていた徳川時代以前、ということになるであろう。この頃は幕府が禁じたもの(キリスト教)以外の諸子百家と仏教に関する諸派は、新興宗教でも何でも許されていた。大本教の弾圧があったのも大本営によってだ。

この頃にあった日本人の理想的精神性を、大和魂と、本当はそう呼ぶのだと思う。

人々は社会の慣習と、寺子屋で文献を見聞きすることによって、それらの素養を得た。

町では石門心学というものが流行し道徳の作法となった。田舎ではメンターは寺だった。そこで、都会では儒教的な教えが色濃く、農村では仏教的な教えが色濃かった。

農村部の人間には無教養な者が多く、大和魂に関する素養がない者もいた。そういった家は戦後の愚民化政策で、社会の荒廃に沿って不良要員を輩出するわけであるが、またそれは別の機会に述べよう。

つまり、江戸時代以前に真の大和魂はあったが、日本人全員が均一な精神性を安定的に持っていたわけではなく、それは理想のお手本としてのものである、ということだ。

まとめると、大和魂とは諸子百家と仏教のエレメントと、地理によって生じた精神性で、天皇のおかげでなったのではない。またそれは理想なのであり、昔の人が全員持っていたのでもない。その根幹は仁、慈悲、博愛などの愛なのであり、義、礼に関するものは派生物である。武士道などはその他の巻物から派生した。

ひとつ注意点があるとしたら、大和魂という単語は大本営によって造られたものかもしれない。もしそうなら、単語の意味は大本営の言う通りになる。

私が言いたいのは、大和魂というものが古来よりあったとすると、それは純粋には以上のようなことなのである。

よろしければサポートお願いします!