『国家』(プラトン著)4巻
一部の人間の幸福ではなく、最大多数の幸福を求めるのが正義であり、国家の目標すべきところだ。偏った富の配分は不正だ。
良い国家のためには国民全員が私有財産のようなものを一切持たず、国全体のために奉仕しなければならない。それが全国民の幸福につながる。
この節制主義がプラトンの禁欲性、プラトニックという言葉となって表れているのだろう。
良い国家には知恵、勇気、節制、正義がある。
良い国家を作るには優れた考慮、すなわち知識が必要である。それが知恵である。
ここでいうところの勇気とは、個人の、恐怖に打ち克つことではない。国家が、その秩序を保持するために、一定の考えを保持することである。一定の考えは法律によって規定され、音楽、文芸、体育によって教育される。
節制は、国家の秩序を保持するために、放縦な欲望に任せた行為を慎むことである。
正義とは、適材適所に応じた自分の仕事以外のことをしないことである。自分に適していない行為は害悪となるからである。自分の分を超えた、自己分析の足りない、おせっかい行為が不正である。
魂には理性と欲望と気概がある。気概は欲望と関連付けられやすいが、勇気などの気概に関しては理性に関連付けられる。国家のために戦うということは個人の欲望と関係なく、理性的な判断に従っているからである。
相変わらず臨死体験の話は出て来ないが、正義というテーマに決着がついたようなので、独自に正義について考えてみる。
プラトンによれば国家秩序のために益することが正義なのであるが、現行法規によれば、それは善意の事なのではないかと思う。善意と悪意があって、良かれと思ってしたことは善意なのである。また、害になる、問題があると知らなくてしたことも善意である。害になる、問題があると知っていて行為することは悪意になる。
つまり、善意の過失は無罪である。ただし、判断可能だったと思われる重大な過失を除く。
私が思うに、常に善意でいることは正義なのではないか、と思う。
しかし、この仮定は間違っているだろう。主観的に正義と思われたことは、客観的に普遍的な正義ではない。
それでは客観的に普遍的な正義とはどういうことか?
それは、善意である上にその意が現実的に善として機能することが真である場合であろう。
短縮すれば、普遍的善であろう。
普遍的善とはどういうことか?
最大多数が益することだろう。最小数に害がとどまることだろう。
ただし、その判断は人間の能力の限界内に抑えられる。そこで、真の善が究極的にどういうことなのか、人間に知ることはできない。
人間は人間に判断可能な最善の理念を正義とする他はない。
勇気とは、善意を実行することに他ならない。様々な障害を乗り越えて、善意を実行することは勇気であろう。
知恵とは、正義を悟る能力だろう。学習で知れる知恵と、遺伝子や鍛錬で高められた脳の創造性がある。
節制は、国家の秩序のためというよりむしろ、個人を守るためにある。それは、経済的な問題と健康的な問題とがある。資産構築のためには収入を増やすことと支出を減らすことが必要である。そのうち支出を減らすことは節制にあたる。健康的にも、栄養バランスと生活習慣の保持が節制に当たる。
現代ではおよそ、このような意味でこれらのキーワードは使われているだろう。プラトンの時代にはまだ、このような言葉の定義が少なかったのだろう。そこで、彼らなりの定義を創り上げたのだ。そういう意味で画期的な書ではあったのだろう。
これらの定義を、今、見直す必要があるだろうか?
今、私にはそれが見当たらないでいる。今後必要となれば、考えることにしよう。
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