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何となく手放しに喜べないとき

ゆっくり過ごせているおかげなのか、自分が何となく不調な時の傾向というかサインが少しずつ分かってきた。
その中の一つに、『人の幸せを素直に喜べない』がある。

ここ2年ほど通っているネイルサロンがある。
そこのネイルサロンではいつも指名をしているため、同じ方がネイルを施してくれる。
最近、その人に彼氏が出来た。
元彼と3年ほど付き合っており、別れ際に元彼の本性が発覚し散々だったとこれまでもよく話を聞いていた。
今までも恋愛や仕事の愚痴やら相談やらその手の話題を選んでいたため、何ら変わりない風景だ。

だが、先日は違った。
彼氏が出来て、これまでの荒んでいた雰囲気とは一変、ものすごい幸せそうなオーラというか、そんな感じの物で圧倒された。

選ぶ言葉、物を置くときのさりげない仕草、選ぶ話題、言葉ではうまく説明できないが、何となくこれまでとは完全に違っていた。なんていうか、自分は満たされているから、他の物を攻撃したり、蔑んだりする必要が無くなったため、菩薩のような柔らかさすら感じた。今の自分にはうまくいってるように見える他人が眩しかった。

休職する前で比較的うまくいっていた時期もあったが、その時の私なら同じテンションで喜べたかもしれない。素直に『おめでとうございます!』と心から言えたかもしれない。表面上、取り繕っていても、自分には分かる。何となくチクチクするような、嫌な感じ。人の幸せを一緒に素直に喜べない自分にも嫌悪感が湧く。

これ以上聞いてたら、どす黒い感情でいっぱいになってしまいそうで。何となくさりげなく話題を逸らした自分がいた。だが、少し落ち着いてそれで良かったと思っている自分もいる。あのままその話題を続けていたら、どこかで嫌味っぽい言い方をしてしまっていたかもしれない。きっとそれは、自分で意図していなくとも相手には伝わってしまう。

そういえば、これまでもそうだった。
休職直前、些細な他人の言葉、社内の雰囲気、隣で談笑してる同僚、全てにものすごくイライラした。
今思えば、完全に余裕がなかった。し、自分の事でいっぱいいっぱいで全てが嫌になっていた。

何もかも敵だと思った。自分の味方など、ここには誰もいないと思った。口角を上げる事も減った。穿った見方をする事が多くなった。部内ミーティングの際も攻撃的な発言が多くなった。全てが灰色、何もかも面白くない、全て無駄だと思った。

業務が終わり、帰宅途中でさえも他人の行動に苛立ちが止まらなかった。消えてしまえ、なんて声に出さずとも自分の行動やオーラから嫌というほど滲み出ていたせいか、その頃は話し掛けられる機会も減った気がする。文章に表してみて改めて思うが、あの時休職を選んで正解だったと思う。

あのまま仕事を続けていたら、きっと血も繋がっていない他人を傷付けていたと思う。余裕がなくて仕方が無かった当時の自分でさえも、それだけははっきり分かっていたから、もうこれ以上は無理だと思い、とうとう休職を決断した。

人間だから波があるのは当然だ、と、頭では分かっていてもいざ余裕がない時になると、いろんな物が途端に見えなくなる。霧が掛かったかのように、見えていた物が見えなくなる。

だからこそ、気付くのが大切だ。ああ、これは危険信号だ。少し余裕がないな、自分のために時間を作ったり、自分を甘やかしてあげる時間が必要だな、と。
そのサインは他人以上に、自分が1番早く気付いてあげたい。

どんな経験も無駄にならない。
こんな風に嫌な自分でいっぱいになっても、それも含めて自分だ。余裕が無くなって、些細な事にイライラするようになってダメになっても、それに気付けるだけで大きな一歩だ。それからまた軌道修正すればいい。

30年近く生きてきて、分かっているようで分かっていなかった自分という存在について、本当にゆっくりだが理解できるようになっている気がする。

自己嫌悪するのではなく、「羨ましく感じちゃったか、そんなとこも可愛いじゃん」とか「あのシンデレラに出てくる登場人物でさえも、嫉妬して意地悪してたよなぁ。誰にだってある事だ」とか言って、感じる事それ自体を認めてあげたり、
「喜べなかったのは最近楽しいと思える事が少なかったからかしら?今日は長風呂でもするか〜」なんて、心の中にいる小さな自分に声掛けしてあげたら、ささくれた心も少し軽くなる気がする。

それが分かるようになっただけでも充分であると、自分を褒めてあげたいと思う。

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