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バイオリンに夢を託して

 3月中旬の東京。暖かくなってきたがまだ風は冷たく、桜は僕らに姿を見せない。僕は手に馴染んだカメラを肩にかける。けれどどんな場面も見慣れた冬の空だけが僕の前に重く横たわっていた。
 僕は撮影を諦め、テニスコートへ向かう。もう何年も動かしていない身体を温めるようにテニスラケットで昔の姿を重ねながらショットを繰り返す。僕の身体を表すようなガットの張り。プレーもずいぶんミスショットが増えた。ボールの勢いはあの頃とは違う。戸惑いの振り上げたラケットを置き、空を見上げる。まだ冬はそこにあった。僕はプレーを終え近隣の中古楽器屋へ向かう。バイオリンという歴史的楽器がを眺める。なぜかその店にはビンテージバイオリンが集まるのだ。

 僕は本来バイオリンに対して無知だ。もちろんそれなりに敬意や歴史的世界観も理解したいとは思う。けれど僕はあまりにもその世界観から離れた場所にいた。

 店内にあるビンテージバイオリンを手にすると、「この100年以上前の音を蘇らせたくなる」そんな気になってくる。わずかに残る因れた弦。胸の中に響く可能性という名の音色。想像だけが僕の先を行く。スマホには弦を張り替えられる工房が近所にあるという。さあ、舞台は揃った。僕はおもむろにバイオリンを手に取る。「何事も出会いだから」と。

さあ未開の地へ

 バイオリンを抱えネット記事でみた工房に近づく。想像していた店構えとはまったく違う。僕は混乱しながらダイヤルする。「その家で間違いない」店主らしい人物は答える。店構えなんてない。普通の民家。それはまるで秘密裏に進められた地下組織のアジトのようだ。どうやら僕のその合言葉を答えられたようだ。その工房の扉を開けると日常世界から吹き飛ばされるような静寂。不思議に香る花の芳醇な匂い。バイオリンが存在するという世界線にゆっくり飲み込まれていく。
 僕の経験上にない不安。まるで限られた人にしか明かされていない会員制のbarに招待されたような気分だ。自分の狼狽えていくのがわかる。

何種類もの工具たち

結論から言おう

 この工房の主とのファーストインプレッションは「ただものではない人物だ」直感的にそう感じた。そしてこのアトリエは「多くのバイオリンが訪れるであろう最後の場所」といっていい。本来の音を失くした愛機を「蘇らせてほしい」と全国から多くの演奏者が訪れる。人生の最終章ための壮大なフラグ。それともこれから未来へ託す旋律なのか。

 ここに並べられた「再生を待つバイオリン」たち。どこか広大な図書館を連想させた。そしてバイオリン再生を語るには多くの時間と経験の洗礼が必要だ。それは型であり木片であり楽譜であり湿度である。主は必要なピースを拾い上げながらバイオリンと共にその時を待った。主こそ「園田信博」氏はガイゲンバウマイスター(ヴァイオリン製作マイスター)40年以上かけて、この再生工房を「バイオリンの最終地」として完成させたのだ。

手際よい動き

皆が心に抱えているもの

 バイオリンに弦を張る姿を眺めながら、意外だったのは多くのバイオリンに対する個性的の中から、本体が秘める「示すべきものがまだこの時代にあるはず」という願いをバイオリン再生に託していること。それは「約束の結果」として語られているのだ。

 制作者も楽器も演奏者も完璧ではない。完璧でないからこそ、時代を経ながら完璧を求めていくのだ。
 彼(園田信博氏)は多くを語らない。まるで「答えはバイオリンに聞いてくれ」とでもいっているようだ。だが彼はときより優しくバイオインに語り掛ける。「バイオリンを再生するという行為は継承していかなければならない技術。誰もが同じように迷わなければバイオリンは必ず再生される。そしてその声(音)は蘇る。簡単なんだよ」と。この難解さに挑む時点ですでに回答なのかもしれない。

再生の時期は近い

音楽という世界で

 音楽は完成すると同時に時間軸で語られる。「新しい」「古い」と。限られた人生時間内で自分のパフォーマンスを発揮していくそれぞれの演奏者たち。
 音楽を奏でるという行為それは「素晴らしい楽曲を届けたい」その一点だと思う。その感情を楽器に託していく。弓を握る指先は自然と力が入る。
手のひらに刻まれた跡。それは弓を握ったものにしかわからない。
歴史を経たバイオリンはあたたかい音色を響かせる。
「このバイオリンは世界一だ」そう信じることができる。

僅かな光の中で

無音の世界のなかで

 工房では小さな音でクラシックが流れる。それは「音楽をあるべき場所に導くために」そういった儀式なのかもしれない。
「バイオリンとの出会い」
「楽器を上手く奏でたいという願い」
「楽器製作者の祈り」
 
皆が夢見た世界がある。それは消えては蘇る。何度でも生まれ変わって。
暗闇からバイオリンの音が聞こえてくる。我々はそれを静かに待つだけだ。
 極東の街でかけられた魔法が解けるように。何度でも。
それを人は「夢の続き」と語るのかもしれない。

蘇りの場所

バイオリンサウンドが心に残る

 バイオリン修理が終わるとまだ外は冬だった。
僕は工房を出て少し歩いた。まだ風は桜を揺らさない。
いつか奏でるだろうバイオリンの音が響く。
新しく張られた弦はその躍動を心待ちにしているようだった。
バイオリンの表面が少し光沢を増したような気がした。
バイオリンの色は音に影響しない。
僕が見てきた景色が変わってしまっただけだ。
バイオリンが背負った「約束の音色」それを守るべき人に手渡せただろうか。
 僕は、街のどこかで風を切りながら森林が見える丘で、このバイオリンが奏でられるのをそっと想像した。

蘇ったバイオリン

園田信博「園田信博弦楽器製作工房」

 日本弦楽器製作者協会会長。現代日本の卓抜した弦楽器製作者。1982年、ドイツのマイスター試験に合格し、ガイゲンバウマイスター(ヴァイオリン製作マイスター)の称号を得る。同年、クレモナのストラディヴァリ国際ヴァイオリン製作コンクール・ヴァイオリン部門で第1位ゴールドメダルを受賞した現在唯一の日本人であり、同時にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ全作品中の最も優れた音に与えられる音響賞も受賞。2006年には同コンクールで審査員を務めた
〒263-0002
 千葉県千葉市稲毛区山王町19-9 0434-23-3076

アトリエにて

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