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日本人初の英国上陸者

世界的パンデミックの影響で、人々の行動が制限されている現在、長期休暇などで故郷へ里帰りすることを諦め、何年も里帰り出来てない方もたくさんいるだろう。故郷に帰りたくても帰れない。この様な状況の人達は、世界を見渡せばいつの時代も様々な理由の上で必ずいる。故郷が戦火に見舞われたり、はたまた自然災害で消滅してしまったり。理由は様々だが、今回紹介する山本音吉(やまもと おときち)も、今から約170年前、不運と当時のシステムにより、故郷へ里帰り出来ず、数奇な人生を歩んだ男だ。

1819年、尾張国(現在の愛知県)で今回の話の主人公の音吉おときちは生まれた。
彼は、14歳の時、見習いの水夫として乗った船が遭難。その後、1年2ヶ月もの間太平洋を漂流した後、アメリカに漂着し、そこで音吉を含む三名の日本人は、先住民に捕まり奴隷となってしまう。奇跡的に生き延びたが、これから音吉の日本帰還までは果てしない時間を有することになる。

先住民達は音吉らを珍しい奴隷として、イギリスの商社に売り飛ばしてしまう。
その後、イギリスの貿易船に乗せられ、ロンドンに運ばれた。奇しくも日本人として初めてロンドンに上陸した日本人となる。(1835年)

その後、音吉ら三名の日本人はマカオに送られ、当時、鎖国をしていた日本へ、開国を迫る人質として利用されることになる。

イギリスの宣教師達とモリソン号という船でマカオを出発。そして、浦賀沖に着いた。

「やっと日本に帰れる。」音吉はそう思ったに違いない。

アメリカに漂流し、イギリスに送られ、さらにマカオ。相当な遠回りをし、今ようやく故郷の日本が目と鼻の先にある。歓喜しない訳がない。

しかし、時代はそれを許さなかった。

日本は当時、徹底した鎖国の国。音吉のことなどつゆ知らず。モリソン号に対して砲撃を仕掛け、モリソン号を追い払ってしまう。

目の前に故郷がありながら追い返された音吉達はどんな気持ちだっただろうか。

そうして音吉は上海で暮らすことになる。そのまま英国兵となり、アヘン戦争に参加したり、自分達と同じ目に合わせたくないと、日本の漂流者を何人も助けたりした。当時の日本人の常識からは大きく外れた奇妙な人生を送る。

そして、1854年。遂にその時は訪れた。

英国の通訳として日本に帰国することが出来たのだ。日英和親条約の締結交渉に力を尽くし、音吉という存在は日本の指導者達にも知れ渡った。その時、音吉はジョン・M・オトソンと名乗っていた。

しかし、何故か音吉は結局上海に戻り、マレー系の女性と結婚。1862年にシンガポールに移住し、貿易商として成功をする。そして、そのままシンガポールで1867年、明治維新の一年前に永眠。まさに波瀾万丈な人生の幕を閉じた。

時は経ち2004年。長い間、不明とされていた音吉の墓が発見され、遺骨の一部が日本に運ばれることになった。漂流から実に173年後のことである。音吉の遺灰は地元の盛大な歓迎を受け、良参寺の墓に納められた。鎖国のない時代、音吉は追い払われることなく、無事に「帰国」出来たのだ。


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