「やりたいこと」のメタ認知

同僚の先生がnoteをやっていると知り、「自分も何か表現したい」と勢い余って始めてみると、次の言葉が目にとまる。

「はじめての記事は自己紹介やこれからやりたいことを書くのがおすすめです。」

ほう、と思う。続けて手が止まる自分を感じる。さて、私の「やりたいこと」って何だろうか。

思い起こしてみれば、年少の頃より自分の「やりたいこと」をやってきたはずだ。少なくとも自分にそう言い聞かせてきたはずだ。生徒との面談でも枕詞のようにそう尋ねてきたはずだ。

でも今手が止まっている自分がいる。何を書こうか迷う自分がいる。タイトルがコロコロ変わり、自分が表現したいことのテーマもおぼつかない。「ああ、これがメタ認知か」などという方向に意識が飛び火してイイタイコトがまとまらない。「今思えば生徒たちにも悪いことをしてきたな」という反省と後悔がよぎり、「自分は本当に教員をやりたかったのか」という自問自答に苛まれる。

でも、きっとこれでいいのだろう。今この瞬間にこうして思索にふけることが今の私にはきっと必要なのだ。こうして改めて表現している人たちの苦悩や偉大さに触れて、自分を見直し振り返ることだけでもこうして行動を起こす意味があったのだろう。

そんなふうにポジティブに考えてみても何も「やりたいこと」が見当たらない。なんだか不安になって机の上を除菌シートで拭きだす始末である。

そういえば作家の村上春樹さんが「自己紹介」をする際に「カキフライ」のことを書いていたなと思いだした。自分の好きなものを書けばいいということだろうか。では「好きなこと」を書いてみようかと思い立つ。

堂々巡りである。そもそも「好き」ってなんだ。寿司くらいしか思いつかないぞ、と何だか恥ずかしくなってくる。そういえば「チーズ牛丼好きそうな顔してますね」と生徒に言われたと思い出し、私も所謂「チー牛」の一員かとなぜかショックを受ける。たしかに好きである。

そんな感じで考えていると、ふと「多様な解釈」という言葉が頭に浮かぶ。最初にタイトルにして消した言葉である。そういえば私は国語の教員であった。言葉の「解釈」を考え教えることが私の仕事であり、それがやりたくて教員になったのではなかったか。そもそもこれを書こうと最初に思っていたのではなかったか。

「解釈」は人それぞれである、という言説が現代の常識であろう。しかし、それで本当にいいんだろうか、とも思う。「伝える―受け取る」の関係がもし存在するのなら、「解釈」という「受け取る」側がもっと考える姿勢を持つ必要があるのじゃあないか。そんな風に思いつく。

何だかえらく遠回りをした気がするけれど(それに読み返したらひどい自分語りではあるけれど)、これが私のやりたいことであろう。多分。

(もし読んでくださった方がいたら格別の感謝を。改めて発信をしている人ってすごいなと思います。)

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